このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

第10回 乗数効果なんて、幻なんだってば

2007年7月24日

(小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」第9回より続く)

前回は、ケインズ理論の「乗数効果」についての標準的な説明を紹介した。「乗数効果」とは、財の需要が供給可能量まで達しない状態で均衡しているとき(つまり不完全均衡のとき)、政府が税金を徴収してそれと同額の公共事業を実施すれば、総生産が同額だけ増加し、その分追加的雇用が発生して失業が解消し、所得が増加し景気がよくなる、そういうものだった。重要なのは、このメカニズムでは「公共事業の内容は問われていない」、という点である。それこそケインズのいう「穴を掘ってはまた埋める」ような公共事業さえ同額の効果があるように見える。だが、そんな「魔法のようなこと」が世の中に本当にあるのか、とまっさきに疑うのが科学的な態度というものではないか。しかし、この「乗数効果」は長い間問題にもされず、大学で平然と教えられ、公務員試験で堂々と出題され続けてきたのだ。かくいうぼくも、何かおかしい、と感じながらもきちんと検討してこなかったのだから、もちろんこれをとやかくいう資格はない。

ところがつい最近、このことをはっきりさせた論考がやっと現れた。それが第4回で書評した小野善康『不況のメカニズム』であり、その大元になっている学術論文はこれである。小野は、「内容を問わない公共事業」の乗数効果なんかまやかしであり、そんなものは存在しない、ということを論証した。つまり、魔法なんかインチキだ、という「オズの魔法使い的おとしまえ」をつけたのである。小野の議論をおおざっぱにまとめると次のようになる。(詳しくは論文でどうぞ)。

IS-LM理論での混乱は、「お金の流れ」と「実効的な生産」とをないまぜにしている点にある。
前回、「乗数効果」を証明するときに使った2つの式
 [総生産]= [消費]+[投資]+[政府支出]・・・(3)
 [総生産]=[国民所得]= [消費]+[貯蓄] +[税金] ・・・(4) 
を思い出そう。この式では、政府が「税金」を徴収してそれを国民に返すだけで(3)と(4)で同時に同額だけ[総生産]が増える。ここには「その税金で何が行われたか」が問われない。これが、「あたかも無駄な公共事業でも総生産が増える」かのように見えるという詐術の出所なのである。つまり、(3)という総生産を定義する国民会計にバグがあった、単にそういうことなのだ。

このことをもっとはっきり理解するために、次のような思考実験をしてみよう。今、政府は1億人の国民から1人10万円ずつ税金を徴収する。次に、政府は国民に対して、印鑑を持って最寄りの役所に出向けば、「その労働」に対して10万円の報酬を払う、と告知する。するとどうなるだろう。「役所に出向くという労働をさせる公共事業」によって国民に1億×10万円=10兆円の所得が発生する。したがって(3)でも(4)でも総生産と国民所得は10兆円増加することになるわけだ。だけど、よく考えてみよう。ここで起きていることは、国民各自から10万円が政府に行ってまた戻ってきただけだ。実際的な生産物には何も変化が起きていないのだ。これが「無駄な公共事業による乗数効果」のからくりなのである。単に「会計上で、あたかも所得が増えたように見える」だけの話なのである。会計の取り方に致命的な欠陥があるわけだ。(系列会社の間で資金を行き来させて売り上げの水増しをはかる粉飾決済ってのが、このからくりだよね?)

以下、この議論をもっと詳しく解説するが、その上で、(本質的には小野の議論の焼き直しにすぎないけれど)、ぼく流の別の枠組みを使う。理由はいくつかある[*1]。一番大きな理由は、前回解説したIS-LM理論では、「なぜ不完全均衡に生産量が落ち着くのか」がはっきりしないので、それをきちんと記述したい、ということだ。企業も家計も不完全均衡の量を知っているわけではないのだから、適当に生産し適当に消費すれば、そこからズレるのが当然である。だから経済には「不完全均衡ににじりよっていくメカニズム」が存在しなければならないだろう。そのメカニズムをはっきり記述するほうが、他のさまざまな点も明瞭になるからだ。

ぼくの変形版IS-LM理論は以下のようなものである。
まず、企業はある情報(式の中ではinfoと略記する)をもとにして、その情報から戦略を決め、その戦略にしたがって生産するとしよう。その量を[生産]と書こう。すわなち、[生産]=[戦略](info)ということである。 (infoに応じて、生産量を決める関数を[戦略](info)と記している)。同様に、家計もある情報をもとにして、[消費]と[貯蓄]を決めるとする。つまり、[消費]と[貯蓄]も情報が決まれば決まる関数になっている。これを[消費](info)と[貯蓄](info)と書こう。

さて、企業が生産物を[生産]の量だけ作ると、その生産に携わった人々に同価値の額の所得が発生するのは当然である。(前回説明した) 。そこで、これがいったん企業から貨幣で支払われると仮定しよう。(ここが通常のIS-LMの解説と異なる点)。つまり、家計は[生産]の額の貨幣所得を得る。次に、家計はその所得を「情報」として、(つまりinfo={所得}ということ)、消費量と貯蓄量を決めるとする。このとき、前回証明したように貯蓄は企業の計画する投資(つまり、次なる生産に活かす分の財の量)と一致しなければいけないことを考えれば、[消費](info)+[貯蓄] (info)が生産された財に対する総需要量となる。そして、ちょうどこの額の分だけの貨幣を使って、家計は企業の生産した財を購入する。問題にしなければいけないのは、家計が各自の情報から勝手に決めた[消費](info)+[貯蓄](info)の総需要量が、実際に供給された[生産]と一致しなければならない理由はない、ということだ。IS-LM理論では、これがはじめから一致するものとして分析されているが、ここではこの点を突っ込んで考えてみることにする。

もしも、[消費](info)+[貯蓄](info)が[生産]を下回っていたらどうなるか。(所得が貨幣で払われたことを思い出せば)、家計には差額分の貨幣が余り、それが貨幣保有に加わる。企業には売れ残った分の財が在庫の増加として現れる。つまり、暫定的な状態として
 [生産]= [消費](info)+[貯蓄](info)+[在庫増加]  ・・・(5)
 [生産]= [所得]= [消費](info)+[貯蓄](info)+[貨幣保有増加]・・・(6)
という2つの等式ができることになる。(当然、[在庫増加]=[貨幣保有増加]である)。

いま、企業の持っている情報が「在庫の増減」だけだとしよう。(つまり、info={在庫の増減}ということ) 。売れ残り(在庫の増加)が生じたとき、企業はどうするだろうか。これをどう考えるかにそれぞれの経済理論に固有の特徴が現れる。ケインズ経済学の考えかたでは、基本的に企業の戦略を「生産量調整戦略」とするのである。つまり、企業が財の価格は変更せずに生産量を調整する、と考えるのである。ここでは[戦略](info)というのを、「info={在庫の増減}を参考に、在庫が増えれば(労働者をレイオフして)生産量を減らす」ようなものだとしておこう。(面倒なので精密には記述しない)。また、家計が参考にする情報は、さきほどいったように、通常のケインズ経済学で仮定される通り、所得だけとする[*2]。

このような設定のもとで、(5)において在庫増加が生じ、(6)における貨幣保有増加が起きたいまのケースでは、企業はこの戦略に従って、次期の生産量を減らすだろう。そのとき、当然労働者をレイオフするので、国民の所得が減少する。所得の減少した国民は、その情報(減ってしまった所得のこと) に従って消費を減少させようとするが、所得が減少しただけまるまる消費を減らさないと仮定する。例えば、所得が1万円減っても消費は8千円程度しか減らさない、みたいな仮定をしておく[*3]。家計は消費が所得を上回る分は貨幣保有を取り崩して消費にあてることになる。するとこの期では、企業が生産量を減少させたことから「(5)における[在庫増加]」=「(6)における[貨幣保有増加]」がともに負となって現れるだろう。このことは、企業の在庫がゼロになる、そして家計の貨幣保有が元の水準に戻るまで継続されることになるのである。つまり、つりあいは「(5)における[在庫増加]」=「(6)における[貨幣保有増加]」=0となる状態だとわかり、式で書くなら、
 [生産]= [所得]= [消費](info)+[貯蓄](info) ・・・(7)
が実現される状態となる。(この式を満たす[所得]をY*と書くことにする)。これが前回解説した定理1の「ケインズ不完全均衡」なのである。つまり、間違って企業が不完全均衡の生産量を超えて生産してしまっても、企業は雇用を徐々に減らしながら生産量を減らし、家計は貨幣保有を取り崩して在庫を購入し、やがては不完全均衡水準の生産量Y*に戻ってしまう、それが均衡達成のメカニズムなのだ。だから自律的にこの均衡から抜けだし、完全雇用が達成されることは決してない。

ここで注目して欲しいのは、家計が生産に携わった報酬として得た貨幣で生産物を企業から同額で買い戻す構造が導入されていることである。これは、「貨幣所得と同価値の生産物が生産された裏付け」であり、政府部門を考えるときの重要なベンチマークとなる。

ではその政府部門を導入してみよう。
いま、政府部門が税金を貨幣で徴収して(その額を[税金]と記す)、何らかの公共事業を実施し、労働者に同額の報酬を支払ったとしよう。このときの国民の所得をきちんと考えるのがポイントだ。国民全員でみれば、私企業の生産に従事した報酬の分である[生産]と公的部門の生産に従事した報酬の分である[税金]の合計額を貨幣所得として受け取り、[税金]の額を納税するので、差し引きの所得(可処分所得)は結局[生産]と同じである。したがって、均衡は、(7)の水準からなんら変更されない。つまり、企業の生産量は不完全均衡の生産量Y*から全く変わらないのだ。したがってもちろん、国民所得(可処分所得) も政府が公共事業をしない場合の所得だったY*となんら変わらない。ちっとも景気などよくならないのである[*5]。

では、総生産はどうなったのだろうか。私企業の生産した価値Y*に政府の生産物の価値を加えたものが総生産である。IS-LM理論では、ここで直接[税金]の額を加えてしまうから誤謬が起きるのである。冒頭の思考実験で説明したことと同じことが、このモデルでも生じていることに注意しよう。ここまでに記述されているのは、国民から政府に[税金]分の貨幣が流れ、そして、戻ってきたことだけである。ここには、それと同額の「価値」が生産された保証は全くない。なぜなら、私企業部門では、さきほど太字で書いたように、財と貨幣の交換が起きているからいいのだが、政府部門では政府の生産物の国民による貨幣での買い戻しは生じていない。したがって、政府の生産物が、政府の支払った報酬通りの価値のあるものであることの保証はこのモデルには存在しないのである。さきほどの例のような「役所に出向くという労働」程度のものなら、その生産物の追加する価値はゼロとしていいだろう。このとき、国民所得も総生産も増加量はゼロであり、乗数効果など幻にすぎないのである。

このように、政府が公共事業を行う場合は、総生産に加わる価値はその公共事業が追加した価値ただそれだけであり、ほかはびた一文ない。しかも、それは(私的部門の財とは異なり)家計の所有物ではないから、実際的な所得に算入すべきではないだろう。国民の所得は一切増えず、増加しているのは公共部門の作った公共物のモノとしての価値(これは私人のものではない)だけなのである。

誤解されている乗数理論のように、無意味な公共事業でも所得増加が生じるなら財政政策の意義もあるというものだが、そうでないとわかった今問われなければならないのは、公的部門が私的部門よりも「国民が欲する財」を生産できる根拠は何なのか、ということだろう。

もちろんここで、ぼくは、公共の仕事をすべて否定するつもりは毛頭ない。公共でなければできないような(基本的人権にかかわるような、あるいは集合的な)特有の仕事は当然あるに決まってる。けれども、「景気対策」としての財政政策の価値は、いまや完全に否定されてしまったといっても過言ではないだろう。だって、乗数効果なんか幻にすぎないんだから。

* * * * *
 
[*1]理由は以下。第1は、本文にも書いた通り、均衡達成のメカニズムをある程度動学化するため。そして第2は、ケインズ理論で混乱を招いている元凶である「お金の流れ」を多少はっきりさせることができること。このことが乗数理論の誤謬を明確にする。さらに第3は、新古典派や小野の理論への道筋を作りやすくなるゆえ。
[*2]伝統的な経済学(新古典派)の考え方を描写するには、企業の[戦略] (info)を「価格戦略」、つまり、在庫が増加したら価格を落とすことを戦略とし、家計のinfoを{所得,価格}として、価格が落ちれば購入量を増やす、とすればいい。詳しくは次回に解説しよう。
[*3]これがいわゆる「限界消費性向が1より小さい」という仮定である。
[*4] 均衡式を方程式の形で書くなら、Y*= [消費](Y*)+[貯蓄] (Y*) となる。
[*5]仮に国民全員が同じだけ時短していて同じだけ労働量を増やしたとすれば、結局労働で税金を納めたのと同じである。また、「政府が公共事業するのではなく、私企業から生産物の購入をする」というケースでも結論は同じになるが、それは各自考えてほしい。

フィードを登録する

前の記事

次の記事

小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

過去の記事

月間アーカイブ