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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

第4回 『不況のメカニズム』は、いかにすごい本か

2007年6月12日

前回は、ケインズ経済学のおおざっぱな解説をしたあと、つい最近出版された本、小野善康『不況のメカニズム』(中公新書)が、いかにすごい本であるか、そして、いかにぼくにとってショッキングであったか、そのことを書いた。今回も、このことをもうちょっとお話ししようと思う。

ケインズ理論は、「不況」を殺人事件に喩えるなら、被告人「不完全均衡」が犯人であるということを、ケインズという検察官が立証していったものだといえる。いろいろな証拠を出し、それらを論理的に組み上げ、容疑者の犯行を立証していったのだ。

ただ、残念ながら、検察官ケインズの立証は、ところどころ論理的な飛躍があり、また都合の悪い証拠に対して、それを安易に無視したり可能性を限定して決めつけたりした部分もあったため、多くの陪審員(経済学者) を説得できずに終わったのである。

その結末で最も不幸だったのは、ケインズの立証が不十分であったため、あたかも被告人が犯人ではなかったような印象を与えてしまった、という点だった。実際の裁判制度では、犯行が立証できなければ被告人は無罪となるが、科学では「立証に失敗すること」と「犯人でないこと」はイコールではない。ところが、多くの経済学者は、ケインズの立証の不備のせいで、勢い余って「不完全均衡」そのものの存在までも否定してしまったのである。実際、ぼくもここ数年、そのような結論に傾きつつあった。

『不況のメカニズム』は、ケインズの立証のどこが失敗だったのかを明らかにし、それでも「不況」の真因としての「不完全均衡」はありうるのだ、ということを論証し直してみせた本である。しかも、正しい立証は、やはり検察官ケインズの証拠の中から見つけ出すことが可能であることまで明らかにしたのだ。これはまさに、かっこいい推理小説そのものではないか。

ケインズの『一般理論』はこれまで、非常に難解な本だと言われてきた。ケインズのペダンティックな文章もさることながら、数理的なようなそうでないような中途半端な記述がなされているからだ。小野はそれを、「ケインズの残したジグソーパズル」と評している。後生の学者たちは、(前回いったように、とりわけヒックスという人だが)、このケインズのジグソーのピースを苦心惨憺して組み合せて、ケインズ経済学の絵を完成させ、それが現在の定番となっているのである。

ところがこのパズルには落とし穴があった。これらのピースで完成できる絵が、なんということか、一通りではなかったのだ。別の組み合せ方をすれば、複数の絵を組みたてることのできるような、ある意味不完全なパズルだったのである。

小野は、ヒックスが取り出したIS-LMモデルという絵が、残念ながら完成度の低いもので、パズルの答えとして妥当なものではなかった、と主張している。そして、小野自身が別の取り出し方をして完成した絵(専門家の間では「小野理論」と呼ばれている)こそが本当の答えである、と。このような小野の言説は傲慢に聞こえるかもしれないが、むしろ逆である。小野は、自分の理論が自分のオリジナルなものではなく、その原型がケインズの著作に埋蔵されていることをケインズへの畏敬とともに正直に告白している、と取るべきなのだ。『不況のメカニズム』は、ケインズの残したジグソーパズルの各ピースを、小野が厳しい目で選り分け、ヒックスの組み上げがなぜ失敗なのかを事細かに説明し、本当の絵を見つけるまでのプロセスを綴ったエキサイティングな本なのである。

ただ残念なことに、この『不況のメカニズム』は、あまり世の中では理解されないだろうという予感がする。実際、ネットで書評を検索しても、冴えない感想やあさっての方向の感想が多い。なぜこんな「ダメな書評」が多いかというと、この本を理解するには、一度ケインズ理論について数理的に真剣に考えた経験がどうしても必要だからだ。喩えてみるなら、この本は、「将棋の定跡書」のようなものなのだ。

将棋の定跡書は、将棋を実際に指さない人には、たとえその人がどんなに将棋ファンであっても、理解できるわけがない。実際にその戦法で(あるいはその戦法の相手と)戦った経験があるからこそ、その細かい手順の機微や有利不利の意味が切実にわかるのであって、将棋を「ただ外野で鑑賞してあーだこーだいっている」だけの人には、全く価値のわからないものであろう。

それで思い出したが、ぼくの中学時代の友人で、その後プロ棋士になったやつがいた。彼が書いた定跡書を献本してくれたとき、彼はぼくに「君には一生わからないから読まなくていいよ」といった。全く口の悪いやつだが、親切心でそういってくれたのだ。ぼく自身は、彼がプロの道に進んだこともあって、将棋には昔からミーハー的興味を持ち、ずっと鑑賞し続けてきた。谷川や羽生や佐藤や渡辺の将棋について、一晩でも熱くしゃべる自信がある。全く将棋を指さないが、「ごきげん中飛車」だとか「角代わり」だとかあーだこーだいうことはできる。ではあるが、確かに彼の定跡書については、その真価をぜんぜん理解できなかった。将棋の定跡書としては異例に売れた画期的な内容の本らしいのだが、ぼくにはどこが「すごい」のかちっともわからなかった。

『不況のメカニズム』もそれと同じであろうと思う。ケインズ『一般理論』を、文学書のように読んでいた人、思想啓蒙の書として読んでいた人、経済評論のためのアンチョコとして読んでいた人、ミーハー感覚で読んでいた人などには、(たとえその人たちが、いくら自分のことを経済の専門家だと自負していようが)、『不況のメカニズム』の真価を理解することはできないだろう。数理モデルとしての経済モデルを組むことで悪戦苦闘した経験がある人だけが、この本の価値がわかり、また実際に役立てることができるのだ。

(営業妨害だといわれると困るので、一応フォローしておこう。ぼくは、その友人の定跡書を本棚のすぐに取り出せるところにおいて、ときどきひもといている。そして、少しずつわかるようにもなっている。いつの日かきっと、この本をまるまる理解してやる、そう思っている。そういう価値のある本だからだ。『不況のメカニズム』もその手の本であることは保証する。是非とも買って本棚に置いておくべきだ・・・焼け石に水か)。

さて、ではなぜケインズは、こんなに混乱を呼ぶ著作を書いたのだろう。ケインズ自身が勘違いをし、迷走していたからだろうか。

そういう面も否めないが、むしろ原因は、ケインズの研究のスタンスにあったのではないか、そう思われる。ケインズという人は、自分の認識を、閉じた数理的体系として無矛盾に整合的に完成することに、あまり熱意を持っていなかったように感じるのだ。というのは、ケインズの他の著作について、つい最近、ほとんど同じような経験を持ったからである。

ケインズの最初の著作であり、博士論文でもあった『確率論』(A Treatise on Probability) を先日やっと読んだ。邦訳がないので、仕方なくがんばって原書で読んだのだ。それは、ぼくが現在専門としている「不確実性下の意志決定理論」という分野で、この本が先駆的業績として高く評価されており、専門家として一度はチャレンジしなければならない論文だったからだ。

ケインズはこの論文で、確率の捉え方に対して、ケインズ以前の考え方と全く異なる方法を提示しようと目論んだ。従来の確率論は、例えば「できごとAが起きる確率が0.5である」ということを、「すべての等しく起きる基礎的できごとのうちの半分がAを構成している」とか「たくさんの試行を繰り返すと、半分の回数でAが起きている」などと(頻度的に)定義していた。ケインズは、これらとは全く別の定義を与えたのだ。それはぶっちゃけていえば、「論理的な推論によって、できごとAが正しい、ということを0.5ぐらい支持できる」という定義である。さまざまなできごとの間に、論理的な関係や因果関係が存在する。人間は、あるできごとの信憑性を、そのような論理的連関性の中から推論する。そのような論理的な推論の結果として割り当てられる数値、それが確率だ、そうケインズは発想したのである。

実は、このようなケインズの「不確実性」に対する認識が、『一般理論』にも大きく関与している。それは、確率を割り当てることさえできない「ナイトの不確実性」という概念だ。(『一般理論』では13章、小野の本では119ページ) 。この「ナイトの不確実性」は、まさにぼくが最近、共著者とともに論文を書いている分野である。皮肉にも、『一般理論』から脱会しようとしたぼくは、ここでまた、ケインズに絡め取られることになってしまったのだ。

このデビュー作『確率論』を読むと、すでにケインズの著作の特徴が現れていることがわかる。つまり、魅力的なジグソーパズルのピースをたくさんちりばめておきながら、それを数理的にまとめる段階になると急にアドホックな態度になってしまう。プロットやアイデアを語る段階ではとても饒舌で才気溢れるのだが、閉じた数理モデルを作ることにはほとんど熱意を示さないのである。きっとこれはケインズの性分なのだろう。

そのせいで、この論文も深刻な飛躍や誤謬をはらみ、それをのちに数学者ラムゼーに指摘されることになった。けれども、ラムゼーは、欠点を暴くことだけに終わらず、ケインズの意をくんだ修正版を作り上げた。それは、現在では(「ナイトの不確実性」を含む)「主観的確率論」と呼ばれる分野の先駆けとなった仕事であった。そういう意味では、小野の今回の仕事は、ラムゼーのそれに匹敵する。そう考えると、ぼくのケインズ『確率論』の読解はまったく甘かったと反省しきりである。もっともっと読み込んで、小野やラムゼーのような建設的な批判に到達しなければならない、と気持ちを新たにしている。

(参考文献) ナイトの不確実性や主観的確率論の入門には、拙著『確率的発想法』NHKブックスと『使える!確率的思考』ちくま新書が適している。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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