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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

第7回「誘惑のコスト」を環境問題に応用してみる

2007年7月 3日

(小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」第6回より続く)

前回は、Gul&Pesendorferの提示した「誘惑を表現する選好とその効用関数」を紹介した。これは、「誘惑する財」が選択肢の中に存在するとき、人は結局それを選択しないにもかかわらず、消費の好ましさが減少してしまう、そういうことを扱った研究であった。

その評価の関数U( )の式をもう一度見てみよう。これは選択可能なものを集めたメニュをインプットすると、その内面的な評価値をアウトプットするものであり、以下の式で与えられた。

U(メニュ)=(数値P)−(数値Q)
ただし、
 P=( uとvに各選択肢をインプットしたときのアウトプットの和u+vの最大値)
 Q=(vに各選択肢をインプットしたときのアウトプットの最大値)

このように評価値Uは、影の関数u( )とv( )とで計算されるわけだが、このv( )は「誘惑が負担を強いるコスト」を表しており、u( )は「コミットメントの効用」を意味している。このことをすんなりわかってもらうため、今回は前回とは異なる例として、「環境保全」に関わる例を持ち出してみたい。

今、自分の選択できる消費は「慎ましやかな消費」(以下、「慎」と略す)と「環境を破壊するかもしれない過剰消費」(以下、「過」と略す)であるとする。

そこで、選択肢として両方の可能性を残しておくメニュ A={慎,過} を考えよう。このとき、自分に「環境保全」に対する合意(選好)があるとすれば、最終的に選択されるのは「慎」であるが、そのときの効用は、メニュAに対して上の(数値P)−(数値Q)を計算することで、
U(A)=u(慎)+v(慎)−v(過)
となる。他方、もしも、何らかの方法で「過剰消費」の選択肢を消すことができて、メニュをB={慎}とできるなら、そのときの効用は、
U(B)=u(慎)
である。

過剰消費が誘惑として作用するなら影の関数vにおいてv(過)>v(慎)だから、明らかに、U(B)のほうがU(A)よりv(過)−v(慎)の分だけ評価値が大きい。つまり、メニュBのほうがメニュAより「快適」だということなのである。このことは、v(過)−v(慎)が「過剰消費をしたいという誘惑に打ち勝つために負担する心理的なコスト」であることを意味する。そして、メニュBでそれが消えていることは、「過剰消費を選択肢から消すコミットメントで高い効用が得られる」ことを意味している。

人によって意見が分かれると思うが、このように人間の内面が「数式化」されることで、ぼくにはものごとがすごく理解しやすくなる。もちろん、この程度のことなら「ことば」でも済むじゃないか、という意見もあるだろう。でも、ぼくのような「ことばによるものごとの理解」がとても苦手な人間には、数式のほうがより緻密な理解とより遠くまで届く洞察力を与えてくれるものなのだ。

そんなわけだから、ここで仮にぼくら現代市民がおおよそこのタイプの内面的な評価関数U( )を内蔵していると仮定しておいて、この評価関数がぼくたちに何を教えてくれるか、それをいくつか述べてみることにしたい。

まず思いつくのは、「自然大好き人間」という人たちがいるのだろうが、そういう人々はここで扱っているタイプの「経済問題としての環境問題」とは全然関係ない、ということである。「自然大好き人間」は、この文脈でいえば v(慎)>v(過) を満たす人と定義できるだろう。つまり、過剰消費の誘惑に全くさらされない人たちだ。この人にとっては、メニュAに関する評価もU(A)=u(慎)であって、メニュBの評価となんら変わらない。要するに、「過剰消費の誘惑からくるコスト」をどう始末するか、という高度に経済学的な問題とは無縁な人たちなのである。

以下は、だらしのない「過剰消費大好き人間」の発言として多少割り引いて読んで欲しい。世の中で環境保全の問題が騒がれ出したとき、一部の「自然大好き人間」の方々が鬼の首でも取ったように、おっと失敬、水を得た魚のように声高になったのには、正直いうと困惑した。環境問題の本質は、「自然の中で暮らす」のと「消費文明を謳歌する」のとどちらが「正しい」か、といった「ライフスタイル価値観バトル」とは全く関係ないのだ。少なくとも、現代の経済学では、人の嗜好や価値観に甲乙をつけるような乱暴な議論は決してしないものだ。(だからこそ、ぼくは安心して経済学の世界に足を踏み入れることができた)。

ぼくら「過剰消費大好き人間」たちが「自制しなくちゃいけないかな」と考えはじめているのは、別に「自然大好き人間」の方々の価値観やライフスタイルに魅惑されたからでもなければ、過剰消費が倫理的悪だと目覚めたからでもない。・・・と思う。ぼくらは、自然科学者が指摘してくれたおかげで、温暖化の可能性が高いと知った今、自分の将来の利益をもよく考慮した上で自制したほうがベターだと気づいただけのことなのだ。

温暖化は自分の生存中には大きな影響をもたらさないと慢心することもできるが、いつか起きるのであれば、それが自分の生存中である可能性だってゼロとはいえないだろう。それだけではなく、自分の老後に親しくするかもしれないまだ見ぬ人々に災難が及ぶ可能性はもっと大きいに違いないし、そういう友人たちから搾取してまで過剰消費を続行したいとは思わないのだ。いってみればこれは、「ぼったくってまで儲けたいとは思わない」普通の商売人の嗜好・性癖と同じものだ。そう考えれば、判断の規準は、あくまで「個人的利益」にあるのだ。そしてそれは、もともと自然をこよなく愛している人たちとはなんら関係がないことである。

もう一つこの評価関数が教えてくれることは、過剰消費の選択肢を抹殺するような政策を施行したほうがひょっとすると社会にとってより良いかも、という視点である。

これは、かなり意外な結論である。普通の経済学で勉強する「リスク下での最適戦略」とはかなり次元が異なる結論だからだ。ノーリスクだが乏しい報償の選択xと高い報償だがリスキィな選択yがあって、どちらか一方でもあるいは両方をいくばくかずつでも選択できるとしよう。このとき、普通の経済学で標準的に導かれる最適戦略とは、おおよそ「両方の適当な中庸を取れ」というようなものである。そうならない場合でも、少なくともリスキィな選択肢yを残しておけるなら、ある程度事態がはっきりするまでyを残しておきながらxを実行し続ける戦略が間違いなく最適である。この例でいうなら、「過剰消費」をいつでも可能にしておきながら「慎ましやかな消費」をする、というような戦略である。

けれども過剰消費の選択肢が残っていることがコストとして作用する場合は話が別になることを、この評価関数が教えてくれる。ぼくらみんなが、本当に「環境保全」に価値を見出しているというなら、過剰消費の選択肢を残すような戦略は、(「自然大好き人間」を除く)市民全員の厚生を「誘惑のコスト」の分だけ低めてしまうだろう。したがって、もしそうだとするなら、「倫理観」や「我慢強さ」や「教育」に頼るのではなく、選択肢そのものを抹殺してしまうほうが社会にとって良い、ということになる。それには、課税や法的な規制などで消費の選択肢を大きく狭めてしまうのが得策だろう。消費に対する課税や法的な規制が、かえって市民の厚生を高めるなどというのは、すごくパラドキシカルな結論なのだが、「誘惑がコストとして作用する」場合には一考に値することなのだ。

実はこれとよく似た観点が、「消費者金融の金利規制」の問題について、つい最近の日経新聞の「経済教室」で論説された。それは、Gul&Pesendorferのような効用関数を使うのではなく、(飯田さんが書いている)「時間割引率」からのアプローチなのだが、これについては次回に紹介することとしよう。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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