第6回「誘惑」の経済メカニズム
2007年6月26日
「誘惑」はコストとして働く。
意識にのぼっているかあるいは潜在意識かはともかく、ぼくらはみんなこのことを知っている。例えば、車で出社している人が食事に誘われると、「食事だけならいいけど、飲み会なら帰るよ」などという。自分だけ飲まなきゃいいものを、人が飲んでいるのが大きなコストとして作用するから、この人は帰ったほうがマシだと思うのだ。
また、ダイエット中の人が昼食でいつものレストランを訪れたら、たまたまサービスで普段のランチメニュと同料金でバイキングサービスを行っていたとき、その人は踵を返して別の店に行ったりする。いつものように自分に許している量だけを食べればいいのだが、「いくらでも食べてもいい」という条件のもとで自分を律するためには、とても大きなコストが必要なのだ。この人は、そのコストを含めるとこのレストランのバイキングサービスはペイしないと感じるのである。
このように、誘惑がコストとして働くことや、人がそれに打ち勝ったり負けたりすることを、従来の経済学ではうまく説明できないでいた。少なくとも、「選好」という概念を基礎にする伝統的な方法論と整合的なうまいモデル化はできていなかった。
「選好」というと難しそうに聞こえるかもしれないが、単に人が消費を行う場合の、その消費が与える快適さの順位付けを表すものにすぎない。そういう順位付けは、多かれ少なかれ、ぼくらが普段心の中で実際に行っていることだ。
経済学では、「人は、与えられた選択肢の集合の中の任意の選択肢aと選択肢bを与えられるとaのほうがbより好ましいなどと一貫性のある答えを持っている」、と想定する。このような無限のアンケート結果を総合したものが「選好」なのである。うまいことに、特定の人の選好がある自然なルールに従っているとき、(詳しくいうと、その人の「選好」が順序集合としていくつかの公理たちを満たす、ということ)、その人の「選好」は「効用関数」と呼ばれる関数の、その計算値の大小関係で表現できることがわかっている。
例えば、ある人が肉と魚で食生活しているとしよう。そして、この人の食生活の内面的な快適さを順位付けする「選好」が効用関数U(x,y)で表されているとする。これはxに肉の消費量をインプットし、yに魚の消費量をインプットすると、その消費の総合的な快適さをはじきだしてくれるような関数なのである。このとき、計算値が例えば、
U(肉4単位,魚1単位)>U(肉3単位,魚2単位)
を満たしたとすると、この人は、肉4単位と魚1単位を消費する生活のほうを、肉3単位と魚2単位を消費する生活より高く評価している、ということになる。つまり、この人の内面にある消費に関する選り好みは、この関数でトレースすることができるわけだ。
大胆にいえば、これは人の消費行動をコンピュータでシミュレートしているようなものである。ここで、「人間は機械とは違う」などと斜に構えるのはあまりポジティブな態度とはいえない。むしろ、「そんなことが可能なら、ネットビジネスなんかで活用できるかもね」、と身を乗り出す抜け目なさがあるぐらいのほうが人生では成功するだろう。このような方法論は、消費者をプログラミングによってバーチャルに作り出し、消費者の行動を予測できる可能性を秘めているからだ。
さて、このような伝統的な「選好理論」の枠組みで「誘惑の持つメカニズム」を表現することは、待望されていたことなのだが、長い間その方法が見つからないで来た。ところがつい最近、その困難が突破されたのである。それは、プリンストン大学のGulとPesendorferという二人の経済学者が、Econometricaという雑誌に2001年に発表した共著論文「Temptation and Self-Control」によって与えられた。
彼らが提唱した効用関数は以下のようなものだ。
特定の「選択肢の集合」を考えよう。例えば、冒頭の車で出社した社員にとって選択可能な夕食の店のメニュなんかである。店Aでの選択肢は食事だけとすれば、A={食事}と書こう。また、店Bでの選択肢は食事以外に飲酒もあるとすれば、B={食事,酒}と書こう。このとき、「選択肢の集合」についての好ましさの順位付けを効用関数U( )で表現しよう。Gul&Pesendorferの与えた効用関数U( )は、この人の内面に存在する各選択肢おのおのについての2つの異なる効用関数uとvを使って、以下のように表現されるとする。
U(選択肢の集合)=(数値P)−(数値Q)
ただし、
P=(各選択肢をuとvにインプットしたときのアウトプットの和u+vの最大値)
Q=(vに各選択肢をインプットしたときのアウトプットの最大値)
つまり、選択肢の集合(メニュ)に対する評価Uは、メニュの中の選択肢おのおのに対する2つの評価値u,vから計算されるのである。
例えば、この社員の第一の効用関数u( )に選択肢の「食事」と「酒」をインプットした結果、アウトプットが
u(食事)=10,u(酒)=1
であり、第二の効用関数v( )に対するそれが、
v(食事)=2,v(酒)=7
だったと仮定しよう。この場合、「選択肢の集合」が「食事」だけの場合、つまり、
メニュA={食事}のときは、
(数値P)= u(食事)+ v(食事)
(数値Q)= v(食事)
となるから、メニュAのもたらす効用は
U(A) =(数値P)−(数値Q)= u(食事)=10
となる。しかし、「選択肢の集合」が「酒」を含み、メニュB={食事,酒}の場合には、
(数値P)= u(食事)+ v(食事)
(数値Q)= v(酒)
になるので、メニュBのもたらす効用は、
U(B) =(数値P)−(数値Q)= u(食事)+ v(食事)−v(飲酒)=5
となる。二つの数値を比較すると、この社員は明らかにメニュAのほうをメニュBより高く評価していることがわかる。(ついでながら付け加えておけば、「飲酒」だけしかできない店に行くというメニュC={酒}の評価はU(C)=1となって、3つのメニュの中で最悪となる)。
これが何を表すのかというと、この社員にとって、選択肢が食事だけの店のほうが飲酒も選択できる店よりも好ましい、ということである。それは、この人はどちらの店に行っても結局食事だけを選ぶのだが、店Bに行く場合は、飲酒の誘惑と戦いながら食事をせねばならず、それが快適さを引き下げるのである。つまり、自制がコストとして作用する、ということなのだ。その「自制のコスト」を表現しているのが第二の関数v( )なのである。
このことを反対からみると、予め「飲酒」の誘惑を切り捨てるために「食事」しかない店Aを選ぶことは、この人の効用を引き上げる、ということになる。これは、「コミットメントの効用」と呼ばれる。コミットメントとは、「確約すること」、あるいは、「他の選択肢を事前に捨ててしまうこと」を表すことばである。人は誘惑に直面している場合、誘惑の選択肢を事前に削除するコミットメントによって、効用を引き上げることができるのである。冒頭の「食事だけならいいけど、飲み会なら帰るよ」ということばは、この人のコミットメントを表しているってわけだ。
Gul&Pesendorferの仕事が画期的なのは、単にU( )という関数をうまく作ったからというわけではない。「誘惑がコストとなる」ということを表現せよと言われたら、ほとんどの経済学者は、これと似た式を提案することだろう。彼らの仕事がすごいのは、このような効用関数Uをもたらす「選好についてのルール」が非常にシンプルなことなのである。多くの読者は興味がないだろうが、ごく少数の物好きのために解説しておくと、それは4つのルール(公理) からなっている。そのうちの3つは、経済学において「選好」から「効用関数」を出すための標準的なものだ。第一は「推移律」、第二は「連続性」、第三は「独立性」である。だから、この関数の形状を導く決定的なルールは、次の第四のもの(Set Betweennessと名付けられている)だけなのである。それは、
「もしも、あなたがメニュAをメニュB以上に好ましく思っているなら、AとBを合わせたメニュの好ましさは、A以下B以上」
というものである。例えば、車で出社した社員はメニュ{食事}をメニュ{酒}より好ましく思っているとき、メニュ{食事、飲酒}の好ましさは、その二つの好ましさの間に入る、そういうことなのである。そして、このような選好関係にある場合、選択肢「飲酒」は「誘惑の財」であると定義できるのだ。これぞ、「誘惑」の数学的定義、ということになる。
(念のためいっておくと、公理系はシンプルだが、これからさっきのU( )の形状を導出する数学的作業は恐ろしくタフである) 。
では、長くなったので、続きは次回。
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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」
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