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飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」

気鋭の若手経済学者が、社会問題・経済問題を、Hacks的な手法を用いて、その解決策を探る。

定義なくして政策なし

2008年2月10日

(これまでの 飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」はこちら。

インフレ・デフレの定義問題は論争の軸を見えにくくします。インフレ(デフレ)の公式な定義は「継続的な物価指数の上昇(低下)」とまとめられますが、問題はその際の物価指数とは何かという問題です。

政策の問題を考える際に、しばしば用いられるのが消費者物価指数とGDPデフレーターです。消費者物価指数については今年に入って全国総平均が上昇していることから耳にしたことのある人も多いのではないでしょうか。

消費者物価指数は、「"基準になる時点の平均的家計の生活"をおくるために現時点では当時の何倍かかるか」という視点から作成されています[*1]。そのために8000ものサンプルからなる家計調査から「基準になる月の平均的家計の生活」を測り[*2]、小売物価統計調査によって価格の変化を調査します。

家計の購入対象全てに関する物価の動きですから、天候や市況によって大きく変化する生鮮食品、海外動向のみから決まると言っても過言ではないエネルギー価格から大きな影響を受けます。そのため、近年の原油価格の上昇は消費者物価指数を引き上げ、前年同月比でプラスの変化がつづいています。

失われた10年、さらにその後の実感なき景気拡大については「日本経済の問題はデフレに端を発している、景気回復のためにはインフレが必要だ」と主張する論者は少なくありません[*3]。これをうけて

「日本経済はデフレではなくなったからよかったじゃないか」
「デフレではなくなったのにむしろ景気は悪くなっている……インフレ論者の主張はおかしい」

との声が聞かれます。

しかし、これらの見解はともにインフレ・デフレの定義問題による混乱が引き起こす誤解と言って良いでしょう。

なぜデフレが悪いのでしょう……。

企業にとっては自社の製品が安くしか売れないことによって業績が悪化するためです。もう少し正確に言うならば自社が付け加えた価値部分、パン屋さんならば小麦粉や光熱費、家賃を除いた「パンを焼いて販売する」という部分の評価額がさがることが業績を悪化させるのです。

また、業績悪化はボーナスの低下を、さらには倒産を招きます。倒産にまでは至らずとも製品価格が低下する一方で(契約期間の問題や組合の交渉力によって)賃金の金額を下げることができない場合、製品価格と比較した賃金が上昇することになります。人を雇うと高くつくわけですから、企業に人員整理を行う必要が生じます。人員整理は家計にとって「クビになるリスク」の拡大を意味するため、やはりデフレは望ましくないということになるでしょう[*4]。

さて、ここで直近の消費者物価指数上昇の問題に戻りましょう。

現在消費者物価指数が上昇しているのは、日本人の多くが働く国内企業の生産活動への評価額が上昇したからではありません。日本企業も、日本政府にとっても「どうにもならない理由」によって原油価格が高騰したためです。したがって、この種の消費者物価指数上昇はけして望ましいものではないわけです。

原油価格高騰による消費者物価上昇は「望ましいものではない」というよりも「極めて有害」です。現代では石油エネルギーなしでは生産も生活もやっていくことができません。すると、石油関連製品にお金を使ってしまった結果、その他の対象への支出は切りつめられることになります。

この「その他の対象」こそが「日本国内の企業[*5]が付け加えた価値部分」に他なりません。石油価格の上昇は「日本国内の企業が付け加えた価値」への評価額を低下させることを通じ、企業、さらには家計を苦境に立たせることになります。

「日本国内の企業が付け加えた価値部分」の評価額を表す物価指数がGDPデフレーターです。日本企業や日本政府の努力では変化させることのできない部分を多く含む消費者物価指数で政策論争をするのは適切ではないでしょう。「デフレが悪い」とか「インフレがよい」といった話をする場合はGDPデフレーターで考える必要があるのです。

ただし、GDPデフレーターは3ヶ月に1度しか計算されない、速報性がないといった問題があります。その場合にはせめて、消費者物価指数のうち生鮮食品と石油関連製品を除いたコアコア指数を用いて議論を進める必要があるでしょう。

現在の日本では、消費者物価指数の上昇によってGDPデフレーターが低下している状況です。経済政策、とくに金融政策を巡る論争はGDPデフレーターを用いて(せめてコアコア指数を用いて)行わなければなりません。論争、そして思考はその目的に適した定義に従って行う必要があるのです。


*1 より詳しい解説については 総務省統計局による解説を参照してください。
*2 日本全体の家計の消費動向を知るためにたった8000世帯の調査でよいのか?という疑問を持たれた方は拙著『考える技術としての統計学』(NHKブックス、2007年)を参照下さい。
*3 私もその一人です。
*4 業績悪化によって「クビになるリスク」が大きく上昇するのは第一に契約社員やフリーターなどの非正規労働者、次いで社内での地位の低い若年労働者です。日本人の過半はそのような立場にないため、このリスクは見過ごされがちなようです。
*5 正確には「日本国内の経済主体」。

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プロフィール

1975年生まれ。駒沢大学経済学部准教授。著書に『経済学思考の技術』『ダメな議論』、共著に『論争 日本の経済危機』『セミナール経済政策入門』などがある。

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