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飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」

気鋭の若手経済学者が、社会問題・経済問題を、Hacks的な手法を用いて、その解決策を探る。

インフレになるとデフレになるの怪

2008年2月 2日

(これまでの 飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」はこちら。

 物事を手際よくこなし、思考を上手に進める(要するにハックする)出発点となるのが目的の具体化と明確化です。具体性のないゴールに向かってモティベーションを高めることなど出来ようにもありませんし、明確な目的無しに効果的な戦略を練ることは出来ません。これは議論においても同じことです。拙著『ダメな議論』のメインテーマでもあるのですが、論争の中心概念の定義があいまいな論争が「何か」を生むことはありません(論争当事者間の悪感情は除く)。

 最近の経済問題ではこの「定義」の問題によほど注意してかからねばなりません。論争の最低限のルール(と私が思っていること)の一つは「用語の定義は公式のもの、または最も一般的なもの」に従うという点ですが、現在の経済問題にはこの「一般的な定義」がぶれているのもがあるのです。その代表が、昨年後半来の原油・食料品価格の高騰と不況の問題です[*1]。

 第一は「デフレ」という単語の指示対象です。物価の上昇はインフレというのは誰しもが知っているでしょうが、デフレの定義は人それぞれのようです。IMFや内閣府の公的な定義では「物価水準の2年以上にわたる継続的な低下」という明確な定義があるのですが、マスコミや少なからぬ評論家はこの定義に従いません。その代わりに彼らが持ち出すのは「デフレ=不況の別称」という定義です。拙著では公式の用語法に従っていないため「このような定義を用いるのは問題外だ」と言うのみでしたが、あまりにもこの用語法は多くの人にシミついてしまっているようです。

 その結果、「物価水準は下がり続けているが(景気はいいので)デフレではない」とか、「インフレによって消費が減少[*2]してデフレになる」 といった言及が行われることになります。すると、IMF・内閣府流の公式用語法に従う者からするとこれらの言及は狂気の沙汰ですから彼らとの論争(というか意思疎通)が全く不可能になってしまいかねません。

 ただし、デフレの用語法については経済の専門家は公式用語法、それ以外の論者がその他という区別がある分マシといってよいかもしれません。もっと困ってしまうのがインフレ・デフレの分かれ目となる物価とは何かという問題です。

 物価と聞いたとき、約半数のエコノミストは消費者物価指数を思い浮かべ、残りの半数はGDPデフレーター(特に国内需要デフレーター)を思い浮かべます。といっても、この二派は敵対しているわけではなく「何のために物価を見るのか」という目的意識が異なるのです。

 インフレやデフレが重要な経済問題である理由の一つが、物価は貨幣の価値を表しているからです。貨幣の価値とは「一定額の貨幣で何が買えるか」によって表されます。例えば、リンゴ1コが100円ならば、1円の価値はリンゴ百分の1個分と言うことです。貨幣の価値を表す「財」としては何が適当でしょう。第一の候補は最も広範な財を、簡単に言うと私たちが普段購入しているような財の価格を含んだ消費者物価指数(CPI)ということになります。資産の利回りを考えるときにはこのような貨幣価値の変動が大きなポイントになります。そのため、資産評価やその実質価値を知りたいという人は物価として消費者物価指数を重視します。

 一方、景気への影響を考えるために物価を知りたいという人が注目する物価はGDPデフレーターです。GDPデフレーターというとなじみがない人も多いでしょう。GDPは文字通り国内総生産のことです。そして国内総生産とはその年に国内で新たに生み出された価値の総額です。このとき、国内で新たに生み出された価値(付加価値)の価格がGDPデフレーターなのです。「国内で生み出されたもの」の価格が下がるということは、国内の企業や自営業者の生活を苦しくすることになります。さらに、賃金の金額が一定のままなのに製品の価格が下がったという場合には、企業は労働者を節約……要するにクビにせざるを得ません。したがって、GDPデフレーターが低下しているとき、景気は悪化します。一方、インフレについてはこの逆の因果によって好況がおきるというわけです。

 CPIとGDPデフレーターの大きな違いは、CPIは原油などの輸入原材料価格の影響を大きく受けるのに対し、GDPデフレーターはそうではないという点です。さらに、景気のために物価を観察したい場合、肝心のGDP統計が3ヶ月に一度しか集計されていないため、毎月発表されるCPIを加工したもので代用することがあることも混乱に拍車を掛けているといって良いでしょう。

 次回はこのような定義のブレが経済論争に落とす陰について考えてみます。


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*1 本エントリは小島寛之氏の言及からヒントを得て執筆しています。
*2 実はインフレによる消費減少という主張もかなりあゃしぃのですが、それはまた別のお話。

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プロフィール

1975年生まれ。駒沢大学経済学部准教授。著書に『経済学思考の技術』『ダメな議論』、共著に『論争 日本の経済危機』『セミナール経済政策入門』などがある。

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