ちょっと教育論でもぶってみましょう
2007年12月25日
(これまでの 飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」はこちら。)
前回のエントリ(競争がもたらす副産物)に関して児童小銃が私自身が伝えたかったことをクリアにまとめてくれています。
競争させると人は競争を回避する、だからこそ進歩とか多様性が生まれるのだ
は社会における競争の必要性と個人や企業が競争を回避することの合理性をあわせて主張しています。社会的に競争の圧力は必要だ。そして、競争の圧力から逃れるために個人はアクションを起こすのだというわけです。
学力低下問題の倒錯
競争の持つふたつの特徴を考えると、「ゆとり教育vs詰め込み教育」の二分法の問題点に気づくことが出来るでしょう。
企業の「利潤獲得競争」だけでなく、日常の生活や学校教育の現場においても競争は避けたいものです。自分自身の経験に照らして「自分も学生の頃を考えると競争は無かった方が良かったな」と考える[*1]。己の欲せざるところを人に施す事なかれ――というわけでゆとり教育論が導かれるというわけです。これまでのエントリを読んでいただければわかるとおり、「個人的に望ましい競争のない状態」を全体に当てはめてしまっているのです。
一方で、最近の学力低下に関する報告でゆとり教育嗜好はずいぶんと旗色が悪いようです。その一方で台頭してくるのが教育における競争促進策です。
ただし、この学力低下論の多くはちょいとぁゃしぃ……。大学教員が集まればお決まりの話題が「最近の大学生の学力のなさ」です。確かに私の本務校でも、15年ほど前の団塊ジュニア世代の大学生と現在の学生のレベルの違いは明らかです。偶然にも同じ年の友人が(私の本務校である)駒澤大学の経済学部出身なので、先日ゼミのノートと卒論の予備資料を見せてもらいました。隔世の感というか何というか、現在の学生の作る資料とは全くレベルの違う出来でした。しかし、これは「うちの大学の学生の学力低下」であって「日本の学生の学力低下」ではない。
91~93年の18歳人口は200万人、それに対して大学に入学できるのは50万人ほどです。一方、平成19年の18歳人口は120万人、大学進学者数は新設と定員増により60万人にまで増加しています[*1]。このような状況では、「ある大学」に入学する学生のレベルが落ちるのは当たり前です。個人的な感想の域を出ませんが、友人の予備校教員によると15年前の日東駒専合格者と今の早慶合格者が「だいたい同じレベル」とのことです。
人口減少と大学の定員増によって大学進学のための競争圧力は低下しています。現在の子供達は学力面でそれほど競争しなくてもそれなりの大学に進学できるのです。したがって、ほっておいてもゆとり教育状態にならざるを得ない。ここに外生的に競争を激しくするようなシステムを入れるのは困難です。勉強しても得られる者が少ないならば、子供達は合理的に勉強をしないでしょう[*2]。
ここでお気づきの方もあるかも知れませんが、人為的に競争を抑制することは発展と多様性を阻害する結果にしかならない。その一方で、人為的に競争を促進することは不可能なのです。
競争圧力は進歩と多様性の源泉です。したがって、学習の世界にも競争圧力が必要だ。しかし「大学受験競争」はいまや競争圧力として有効ではありません。競争圧力を機能させる一つの方法は大学定員の半減です。しかし、私立大学にこれを強制するのは難しい[*3]。すると、スクリーニング手段として「大学名に変わる何か」が求められるようになると考えられます。
*1 ただし91-93年とは違い、現在では定員割れの大学が「ごっそり」あるので60万人は「大学入学定員」とは言い難いでしょう。
*2 現在の私学ブームは親となった団塊ジュニア世代(最も激しい受験競争を経験した世代)の幻想に支えられる部分が大きいのではないでしょうか。
*3 成功している私立大学ほど補助金への依存度が低い。
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飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」
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