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飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」

気鋭の若手経済学者が、社会問題・経済問題を、Hacks的な手法を用いて、その解決策を探る。

僕たちはどう合理的なのか

2007年10月30日

(これまでの 飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」はこちら。

■合理的経済人ってどうよ?

経済学的な思考の基礎の一つに「経済主体は合理的に行動する」というものがあります.これを出発点だと言われると,「いやいや少なくとも俺はちっとも合理的じゃないよ.先月の健康診断で肝臓の数値が要注意だったのにさっきもトンカツを食っちゃったし……」と思うかも知れません.たしかに,どうかんがえても馬鹿みたいな行動をしているようにしか思えない例はいくらでもあります.

この程度の理由で経済学を批判する人もいるようですが,この程度で経済学の基礎は崩れません.健康診断の結果が悪かったのに油ものを食べてしまったあなたは「将来の肥満や健康不安よりも,現在の快楽を優先する人だ」……経済学的には「将来への割引が大きい人だ」というだけの話.「将来よりも現在を重視する」という価値観の元で,自らの満足を最大化している.つまりは,合理的に行動しているわけです.

それでもなお,前回も紹介したローカルな最大化や視野狭窄の問題をとりあげて,「現実には,私たちは全ての情報を元に意思決定を行っているわけではないので合理的な行動は出来ていない」という批判もある.これについては,情報収集にコストがかかるという制約をおけば解決します[*1].情報コストが高いから,わざわざ正確な情報を収集するよりも,手元にある情報だけで行動していると考えるわけです.

経済学のコアは,お手軽な「反経済学」からの批判程度ではびくともしません.

■行動経済学への対応

2002年にダニエル・カーネマンとバーノン・スミスがノーベル賞[*2]を受賞をとって以来,日本でも行動経済学という分野が浸透しつつあり,今年の5月には大阪大学COEの研究者などが中心となって行動経済学会が設立されました.

しかし,この行動経済学の一般的な理解もなかなかの困りものです.行動経済学の入門書などでは「これまでの経済学が想定していた合理的な経済人の仮定があやまりであり」,人間の行動を心理学的にとらえることから出発する新しい経済学だといった感じの紹介がされることがありますが,これは非常に誤解されやすい紹介です(というよりも経済学者以外だれもが誤解せざるを得ない表現だと思う).

行動経済学の最もメジャーな成果にプロスペクト理論があります.ごく単純に紹介すると,人間の満足度は(通常の経済学が想定するような収入などの利得の単純な関数ではなく)ある基準点となる収入や利得を上回るか下回るかに大きく左右されるというものです.例えば,ある人が「男たるもの年収は500万くらいはほしいなぁ」という基準を持っていたとしましょう.このとき,彼は年収が500万を上回っている限りはそれほど年収に執着せず,安定を求めて行動します.その一方で,年収が500万円を下回っているとなんとか自分自身の基準を超えようと,好んで危険性の高い行動であってもそれを行うようになるというわけです.

さて,ここまで読んでいただいた人にはもうピンと来たかも知れません.行動経済学が否定しているのは「合理的経済人」ではありません.行動経済学が改変を迫っているのは「これまでの経済学が想定していたタイプの合理性」なのです.

したがって,行動経済学からの指摘を受け入れた他の経済学者の仕事は個人の合理性に関する仮定を換えることになります[*3].つまりは,今までは「満足度=f(年収)」のような単純な効用関数からモデルを作っていたのに対し,これからは「満足度=f(年収-基準年収) when 年収>>基準年収,g(基準年収-年収) when年収<基準年収」というなかなか複雑な関数からモデルを作らなければならなくなるというわけです.関数の形は違えど,それを制約条件の下で最適化するという点は変わらない.「自信の満足度を合理的に最大化する経済主体」であることにかわりはないのです.

では,行動経済学のすごいところはなんなのでしょう! もちろん,経済学者の内輪の話としては,出発点となる関数を変えることになっただけでもすごい.しかし,それだけではありません.実は,行動経済学の諸仮説が正しいとしたならば社会の中における経済学と経済学者の役割が大きく変わってしまうのです.

これまでの経済学はいうなれば人々は生涯所得の(割引現在)価値を最大にするように行動していると考えていたようなものです.全ての人はちゃんと生涯所得が(各自のおかれた条件の範囲で)最大になるように行動しているわけですから,経済学者が個人に対してアドバイスできることは何もありません.その結果,実用的な経済学はいつも制約条件,例えば規制政策や情報公開制度などの政策的課題を主な活躍の場としてきました.

それに対し,行動経済学の結論が正しければ! 人々は自分の能力で稼げる最大額を稼いでいない状態にあることになります.すると,経済学者は「心理的な特性を矯正することで,あなたはもっと金持ちになれますよ」とアドバイスできるようになる.これは経済学の役割の革命的な変化です.

いまのところ,経済学者がコンサルタントとして活躍できるほどには行動経済学の成果は確固たるものではないようです.しかし,経済学者はもっと金持ちになる方法をレクチャーできるようになる日が来るかも知れません.そうなれば,経済学部は不人気学部から一躍人気学部になることも……っていうのは無理かなぁ.

* * * * *
*1 実際,情報収集コストの面からマクロ経済学を基礎づけるという作業は比較的メジャーな研究方針です.
*2 正確にはノーベル賞に経済学賞はありません.正確には「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」とのこと.
*3 ただし,(i)従来の想定のままでも比較的良好な予想が出来る(特にマクロモデル),(ii)企業や大投資かなどは比較的従来型の合理性に基づいて行動しているのではないか,(iii)また一人でも合理的なプレイヤーがいれば全員合理的な場合と同じ結果が出る市場もある(特に金融市場)などの理由から,行動経済学の成果をそのまま効用関数についての仮定に反映するようにまではなっていないようです.

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プロフィール

1975年生まれ。駒沢大学経済学部准教授。著書に『経済学思考の技術』『ダメな議論』、共著に『論争 日本の経済危機』『セミナール経済政策入門』などがある。

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