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飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」

気鋭の若手経済学者が、社会問題・経済問題を、Hacks的な手法を用いて、その解決策を探る。

限界が交換を生み、交換が繁栄を生む

2007年9月24日

■出発点としての稀少性

経済学思考の出発点は6月11日のエントリでも紹介した「稀少性」です。稀少性というとすごく特殊な話のように感じてしまいますが、要するには「完全無料の時に世の中の人が欲しいと思う量の合計」が「この世に存在する量」より多いということ。入門書だとかで「経済学は稀少なものだけを対象にします」とさらっと書いてあるのを見たことがあるという人もいるかと思いますが……これってかなり重要なことだったりします。

第一に、「この世に存在する量」が「完全無料の時に世の中の人が欲しいと思う量の合計」よりも多いなら、そんなものについては時間をかけて考えてもしょうがないじゃないですか。好きなようにすればよいんです。お金はもちろんのこと服でも食べ物でも「限りがある」からどうしよう、こうしようって悩むわけです。そして稀少なものはお金とか商品とか形あるものだけではないですよね。例えば、時間なんてその代表です。陳腐な表現を使うと「時は金なり」ってわけです。体力だって何だって限りがある[*1]。

さて、どうも真面目に考える必要のあるものは稀少だ。全員が好きなだけってわけにはいかない。すると誰かに「君の○○を僕にくれない?」って言われたとき、なんの見返りもなく「いいよ」ってわけにはいかないでしょう。代わりになにかもらえないなら、それはちょっと……って思うわけです。

別にもらえるものは形あるものだけじゃない。「ちょっと時間いい?」って言われたこと(言ったこと)は誰にでもあると思いますが、このとき、自分の時間をだれかにあげる代わりにもらえるものはお金や商品じゃないコトも多いでしょう。その人との友情(?)であるとか、相手が上司ならその覚えがめでたくなることとかだったりします。

■交換が繁栄を生まざるを得ない理由

稀少なものが欲しいと思ったとき、それを持ってる人から譲り受けるためにはその代償が必要になる……というとなんだか高尚な話をしているみたいですが、要するに交換しないとブツは手に入らないという話です。稀少性は交換を生む。

ここで、注目して欲しいのは「交換がなにをもたらすか」という問題です。例えば、あなたがしている腕時計を、X氏が「俺のiPodと交換してくれない」と言ってきたとしましょう。Yesと答えたときのみ交換は成立します。ではYesと答える。つまりは交換が成立するための条件は何でしょう。

それはこの交換があなたにとって得なことです。例えば、あなたがちょうど「iPod欲しいな」と思っていたり、「この腕時計そろそろ飽きたな」と思っていたならば、この交換は得です。また、ここで「X氏に恩を売ってやろう」なんて場合も長い目で見て得だと考えるからこそ提案に乗っているわけです。なお、X氏にとってこの交換が得なのはいうまでもないですね(もし損だったらそんな提案はじめからしないでしょう)。

ここから交換に関する最重要命題が導かれます!

「交換が行われるならば、交換の当事者はともに得をしている[*2]」

もちろん、双方が得をしているからといって「同じくらい得をしている」とは限りません。X氏はあなたの腕時計を欲しくて欲しくて欲しくて……しかたがない状態、一方のあなたはまぁiPodの方がいいと言えばいいかなという程度だとしましょう。交換の結果、X氏は大幅に得をし、あなたはちょっとだけ得をすることになります。

これをもって「等価交換じゃない!」「不平等だ!」という批判があるようですが、ホントにそうでしょうか。交換は誰からも強制されたものではありません。なかには「他人が得をするのが許せない」という人もいるでしょうが、そういう人は(自分が当事者だったとしたら)交換を拒否すればよいだけのこと。このような嫉妬心を勘案しても、やはり「交換が行われるならば、交換の当事者はともに得をしている」のです。

取引の当事者双方が「よりよい状態」になっているのですから、交換は社会全体をよりよく、より豊かにしているということになります。経済学者はいつても自由な取引の重要性を強調します。だってみんなを幸せにしているんですから!

■よけいなお節介はやめてよね

自由な経済活動がみんなを豊かにするという話をすると、かならず指摘されるのが「発展途上国がどうだこうだ」「アフリカはどうのこうの」というお話しです。たしかに、先進国と途上国の一人当たり国民所得には大きな隔たりがあります。このような格差を問題視するという立場はわからなくはありません。

しかし、それって自由な交換活動(要するに貿易)のせいですか? 貿易をやめると改善する問題なんでしょうか? よくよく考えてください。途上国の国民、生産者は誰に強制されて貿易をやっているのでもありません。自分が得だから輸出・輸入取引をしているのです。もしかしたら、先進国の企業の方が「たくさん得」をしているのかもしれない。でも、それはSo What!?なお話しです。(嫉妬心まで含めて)納得ずくで行った交換に文句を言う権利は当事者以外のだれにもないとおもうのですが……。

もうひとつのあり得る批判は、最貧国の農作物を海外が高く買ってしまうから国内で食べるものがないという話。海外が高く買ってくれる……じゃあ高く買ってもらったことで得られた収入はどこへ行ったのでしょう。そうではなくて、一部の金持ちだけが豊かになって、食料価格が上がった最貧層はたべるものがないという話なのだといわれるかもしれない。(どうもこの手の話は事実関係自体が怪しい部分があるのですが)もしそれが真実だったとして、他国の国内再分配問題に口出しをする権利なんてあるんでしょうか。

さて、ここまでで「交換サイコー」「交換エライ」って部分は納得いただけましたでしょうか。なんたって双方納得済みの自発的な行動なんですから!……とこんだけ買いといていまさらなんですが、この思考法にはひとつとっても困ったところがあるんです。


*1 限りがないものの代表はなんでしょう。以前のエントリでは、かつては水や空気がその代表だった(最近はそうでもないみたい)……形のないものでいうと人類愛とかも限りがないかも知れない(男女間の愛は結構制約がありそうですが)。愛について論理的に考えるのが難しいのは稀少性を満たしていないからかも知れないですね。
*2 損も得もしていない(ちょうど等価交換だ)というケースもあります。

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プロフィール

1975年生まれ。駒沢大学経済学部准教授。著書に『経済学思考の技術』『ダメな議論』、共著に『論争 日本の経済危機』『セミナール経済政策入門』などがある。

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