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飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」

気鋭の若手経済学者が、社会問題・経済問題を、Hacks的な手法を用いて、その解決策を探る。

第11回 RPG的(?)人間観

2007年8月 6日

(飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」第10回より続く)

■テンプレートにRPG批判

僕たちから下の世代(先月32歳になりました)ならばほとんどの人がゲーム機やPC[*1]でRPG(ロール・プレイング・ゲーム)をやったことがあると思います。そして、子供や若者が夢中になるとお偉方がその害毒を喧伝するというのは有史以来(?)変わらぬ現象でしょう。ゲームをやると何とか波が出たりでなかったりするみたいですし[*2]。なかでもストーリー性のあるRPGでは「現実とゲームの区別がつかなくなる」ってなかんじのテンプレートな批判でおなじみでしょう。

さて、この手の批判のくだらなさ加減は拙著『ダメな議論』(ちくま新書)を参照いただくとして……今回はあえて「現実とゲームの区別がつかなくなる」について真面目に考えてみましょう。

現実とRPGの大きな違いは何でしょう。敵を無批判に殺していく残忍性? 死んでもリセットすればやり直せる安直さでしょうか……。これらも現実の違いではありますが、RPGに限った問題じゃない。すべてのゲーム(ビデオゲームに限らない)に共通する話ですし、第一、こんな明らかな違いについて「区別がつかなくなる」なんて状況は心配してもしょうがないでしょう。ここで考えたいのは。RPGの特徴、そして現実の生活や仕事と混同してしまいかねない特徴です。

RPGの重要な特徴の第一は普通に敵を倒していけばプレイヤーのキャラクターが成長することです。そして、レベル10になればレベル1の時には苦戦していた相手を一撃で倒すことが出来る[*3]。言い換えるならRPG世界では努力は必ず報われるというわけ。これこそ現実、そしてテーブルゲームなどのゲームとRPGの一番大きな違いではないでしょうか。

したがって、「RPGによって現実とゲームの区別がつかなくなる」という主張は、「RPGによって、”努力は必ず報われる”というゲーム的な思考と現実の区別がつかなくなる」と言い換えるべきでしょう[*4]。あれ!? これって文部科学省推薦の映画やら本やらでも支配的な発想な気がするんですけど……。

■なぜ努力が報われなかったりするのか

なんで努力が報われないことがあるんでしょう? それを考えるためには、「報われる」についての定義が必要です。

「練習したらピアノの練習曲が弾けるようになった」ということで「報われた」と思うならば、「努力は必ず報われる」という主張はそれなりに一般性を持つといってよいでしょう。つまりは、努力することで独立の(絶対的な)目標水準をクリアすることができるというのはまぁ妥当だといってもよい。趣味の世界での目標はえてして他者から独立した対象として設定されます。趣味だと楽しかったのに仕事にすると急につまらなくなる。その理由は、この「報われる」の定義より、趣味の範囲ならば「努力は報われる」からなんじゃないでしょうか。

一方、ビジネスにおける目標は相手あってのものです。例えば、売上げ目標の達成のためには、他社(時には同一店舗内の同僚)の売上げを奪うか、お客さんに今まで以上の金を出してもらう必要がある[*5]。したがって、目標達成のためには「他者に勝つ」というステップが必須になっています。目標そのものが「営業成績の伸びで×社に勝つ」というような相対・比較型になっている場合はなおさらのことです。

他者が登場すると、話は急にややこしくなる。あなたはAさんに勝つために努力します。しかし、Aさんもまたあなたに勝つために努力しているのが普通です。こうなると、相対的な努力の質と量、才能などの比較によって「努力したのに報われない人」が必ず発生することになる。他人事のように書いてしまいましたが、自分が「努力したのに報われない人」になることは十分にあるわけです。

努力は報われるとは限らない……というとなんともニヒリスティックですね。しかし、そうなんだからしょうがない。「努力が必ず報われる社会」を作るためには「報われる」の語義を絞り込むしかないんです。

■自分以外は馬鹿じゃない

思考法のツールボックスに「努力は報われない」なんてつまんないネタを仕込んでおいてもしょうがない。そんな暗い立脚点から出発するのはなんだか寂しいですしね。思考法のツールとしてぜひ知っておきたいのは、「自分以外の人も自分のように努力している」、そして「自分以外の人もいろいろ考えている」……要するに「自分以外も馬鹿じゃない」という点です。

他人事じゃないんですが、学者や評論家諸氏の社会評論に一番欠けているのは「批判の対象となっている相手も馬鹿というわけではない」という思考です。確かに、「自分以外はみんな馬鹿」を出発点にすると話がすごく楽で、エッセイ1本くらいなら小一時間で書けちゃう。でもですね。自分も世の中の人もそれなりに利口で、同時にそれなりにアホだっていうのが妥当な評価じゃないでしょうか。

でも、最近の若者をみているとどうも「こいつら馬鹿なんじゃネーノ!」と思えて仕方ないこともありますよね。しかし、経済学者は「X氏は(自分から見て)非合理的な行動をしているから、頭が悪い」とは考えません。むしろ「X氏は自分とは異なる目的関数に基づいて行動している」、「(自分から見ると非合理的としか思えない行動をすることで)X氏は満足するという行動方針を持っている」と考えます。

この発想の転換は、ビジネスと社会評論にとって大きな導きの糸になるのです。

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プロフィール

1975年生まれ。駒沢大学経済学部准教授。著書に『経済学思考の技術』『ダメな議論』、共著に『論争 日本の経済危機』『セミナール経済政策入門』などがある。

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