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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第24-3回【同期性考察編(7)】現代のメディア環境は、同期と非同期の「二層構造」である

2007年12月28日

(これまでの濱野智史の情報環境研究ノート」はこちら)

■24-3:現代のメディア環境を、同期と非同期の「二層構造」モデルで捉える

そこで筆者がモデルとして採用したいのは、上でも触れたインターネットの「レイヤー構造」――「通信層」と「アプリケーション層」の分離――を現代社会論に拡張した試みとして捉えることもできる、東浩紀氏の「二層構造」という概念です(*3)。これまでの考察を、「二層構造」モデルに沿って整理しなおせば、それは次のようになります:

同期と非同期の「二層構造」モデル

・従来の近代社会≒マスメディア環境は、テレビをはじめとする同期型メディアが社会を広範に覆うことによって、巨大な「(想像の)共同体」を実現してきた一方で、その圏内では、主に書籍等の非同期型メディアによって、専門的知識の細分化が行われてきた。つまり、かつては「巨大な同期の中に、小さな非同期がいくつも存在する」という包含的構造が成立していた。

・これに対し、現代のメディア環境は、インターネットという巨大な非同期型アーキテクチャ(=「通信層」)の上に、それよりも小規模な同期型アーキテクチャ(=「アプリケーション層」)がいくつも形成されている/いくような、「二層的」な状態として捉えることができるのではないか。

このモデルの比較から言えることは、インターネット以前と以後では、「同期」と「非同期」の包含関係が逆になっているということです。比喩をまじえて表現すれば、かつては、社会全体を同期メディアが「傘」のように覆い、その下でサブシステムがばらばらに作動してきたのに対し、いまこれからのメディア環境は、インターネットという非同期型コミュニケーションの巨大な「大海」の上に、同期型のコミュニティが「島」のように浮かぶイメージ(*4)として素描できるのではないか。

もちろん、いまだ現状のインターネット上のコミュニケーション・ツールは、BBSやブログやSNSといった非同期型のものが大半ですので(*5)、これは現状のモデルというよりも、この先の未来予測も含めた「先走った」モデルであることを断っておかねばなりません。ただ筆者は、今後も「ニコニコ動画」のような擬似同期的サービスは、いくつか出てくるものと思われます。それはなぜかといえば、インターネットという巨大な非同期環境上において、擬似同期型アーキテクチャこそが、効率的に「同期性(いま・ここ性の共有体験)」を提供できる仕組みだからです(*6)。かつてマスメディアは、「同期性」を独占的に提供することで、その「希少性」を確保することができた。これに対し、インターネットは、基本的にすべてをばらばらのコミュニケーションに拡散させてしまうことで、「同期性」を巨大な規模で体験することは困難になってしまった。そこで擬似同期型メディアは、かつて「希少なもの」だった「同期性」を《複製》してしまうことで、「いま・ここ性」の共有機会を増大させ、それゆえに多くの人々を惹きつけることができる、ということです。

こうした新たな同期型メディアの登場によって、マスメディアによる「同期性」の独占体制は崩れ、そして私たちの社会は、「国民国家」のような規模で、日々の「共通知識」を獲得することはなくなっていくかもしれない。しかしその一方で、「アプリケーション層」のすべてが、「非同期」的なものに拡散していくわけではない。インターネット上のあちこちでは、なんらかの(擬似)同期的アーキテクチャや同期的イベントを通じて、かつての「地域共同体」のような範囲と規模感で、「共通知識≒共同体」が形成されていく。――こうした同期と非同期の「二層構造」的なモデルを採用することで、「擬似同期型アーキテクチャ」の出現だけではなく、その他のさまざまな現象に分け入って考えることができます。今回で「同期考察編」はいったん終了し、次回以降は、このモデルに立ち返りながら、いくつかの応用問題を扱ってみたいと思います。

* * *

*3. 東氏の「二層構造」モデルを、よりインターネット上の具体的な諸状況にプロットした試みとして、筆者も中心的に関わった、「情報社会を理解するキーワード」(初出:『InterCommunication No.55』第15巻第1号, NTT出版, pp.6-23, 2005年。東浩紀『情報環境論集』 講談社BOX、2007年、所収)があります。
 ちなみに、本文中では解説しませんでしたが、「二層構造」モデルのポイントは、たとえば「人間的」と「動物的」、「欲望」と「欲求」、「共同体(コミュニタリアニズム)」と「市場(リバタリアニズム)」といった、二つの対称的で対立的な人間(社会)の傾向を、これまでの近代社会は無理やりどちらかの側に《統合》しようとしてきたのに対し、現代社会(ポストモダン)においては、「価値中立的なインフラ/アーキテクチャの層と、価値志向的なコミュニティ/イデオロギーの層」(あるいは「環境管理型権力」と「規律訓練型権力」)という二つのレイヤーに《切り離して》――東氏の言葉はそれを「解離」と表現しているのですが――制御するようになる、という点にあります。この「解離」、すなわち「無理やりどちらかに統合しようとする必要がなくなる(一方がより「本質的」であるとみなす態度を捨てる)」という点が強調されています(東氏自身による補足はこちら:「解離的近代の二層構造論 」)。
 筆者の考えでは、おそらく現状の「マスメディア VS. インターネット」的な言説の多くに必要なのは、こうした「解離的」な態度だと思われます。従来の議論は、そのどちらかをこの社会にとって「本質的」とみなすものが大半でした。たとえばかつてのブログ・ジャーナリズム論の場合であれば、片方からは「ネットこそが草の根型の民主主義やジャーナリズムの《本質》を体現する」と、もう片方からは「いやいやマスメディアこそが真の公共性を担うべきで、ネットには《ノイズ》や《暗黒面》が多すぎる」と反論があがる、というように。しかし、現代のメディア環境においては、否応なしにインターネットという巨大な非同期コミュニケーションが浸透しつつあり、かつて存在した「マスメディアに情報を載せれば、それが直ちに『共通知識=公共的認識』としてあまねく通有される」といった安定した回路は失われてしまっている。それはネットも同じことで、ネット上で議論すれば、なんでもかんでも草の根型で公共的議論を達成できるということは、決してありえない。むしろほとんどの議論や情報は、たとえ盛り上がってもその場限りで、公の認識として蓄積されていかない(ブログジャーナリズム論の多くは、結果的に議論が「公共化」した事例だけを取り上げているに過ぎない)。こうした「解離的」な認識から出発する必要があるのではないか、というのが筆者の(そしておそらく多くの方も共有されているであろう)立場です。

*4. ここで「島」と表現するとき、筆者が想定しているのは、宮台真司氏がかつて用いた「島宇宙化」という概念です。当初、90年代中盤に宮台氏がこの言葉を使い始めたとき、それは「サブカルチャー神話解体」で明らかにされたような、「ファッションや音楽といった『記号的消費』の選択パターンによって、つきあう人間をフィルタリングする作法」が、《いよいよ成立しなくなった段階》を指していました。つまり、消費ジャンルが細分化するにしたがって、人々の間に「どういう音楽を聴いていれば、どういう物語を解釈しているのか」に関する「共通知識」をアテにすることができなくなり、「単純に自分が聴いていて気持ちいいかどうか」という身体的な「快/不快」原則に従って消費を行うようになった、ということです。つまり、宮台氏がかつて用いていた「島宇宙化」とは、こうしたシンボル消費に関する「共通知識」が広範に通有されなくなった状態を指している。
 また先日、宮台氏のブログにおいても、この概念に触れながら、こうした「島宇宙化」=「共通前提の不透明化」が進んだ結果として、90年代後半の「お笑いブーム」から昨今の「KY」ブームまで、「その都度のノリで共通前提の代替物を作り出す」作法が一般化したのだと説明されていました。そして筆者の考えは、まさにこうした「共通前提の不在」を埋め合わせるための「代替物」として、「情報環境」(の上層のアプリケーション/コミュニティ層)が細分化しつつある、というものです。少なくとも日本の(ごく?)一部のネットユーザの間では、ニコニコ動画なりTwitterなりmixiなりはてなダイアリーなりの中からウェブサービスを「選択」するということは、単に自分の目的に合った「機能」や「サービス」を選択するというだけではなく、ある特定の「共通知識」を獲得し、コミュニケーション・チャネルをフィルタするということを意味している。そして筆者が、「同期的コミュニケーション」の「島」が形成されるというとき、それは、コミュニティの外側から見れば、そこにどのような「共通知識」が存在しているのかまったくの不透明であっても、そのコミュニティの内側から見れば、なんらかの「共通知識」が通有されている状態を指しています(≒「限定客観性」)。つまり、「二層構造」的なメディア環境は、社会全体から見れば「共通知識」を希薄化していく一方で、各コミュニティの内側から見れば「共通知識」の形成を促していく、という二面的性質を備えているということです。

*5. それでは同期と非同期の「二層構造」において、現状のブログやSNSといった非同期型のコミュニケーション・アプリケーションは、今後どこへ向かっていくのでしょうか。筆者の考えでは、それはある程度規模の大きい「同期性」が確保された範囲、つまり一定規模の「共通知識」が通有された範囲の「内側」で、主に使われるようになると思われます。それは、(かつて筆者もそのように主張したことがあるのですが、)ブログの「タコツボ化」や「島宇宙化」といったネガティブな事態とみなすこともできますが、視点を変えれば、ある種の「適切な利用の結果」とみなすことも可能です。第8回でも参照した「メディア・リッチネス理論」の知見に基づけば、手紙や文書といった非同期型のコミュニケーションは、議論の課題があらかじめ明確に設定された――つまり、何を議論するべきかが「共通知識」として成立している――場合に、有効に働く。そして同期型のコミュニケーションは、そもそもいま何に取り組むべきかが不明瞭な状況においてアジェンダや課題を探り出し、それを「共通知識」とする場合に、有効に働く(だから「炎上」がネット上のトピックとして好まれるのだともいえるでしょう)。こうしたメディアの「相性」を考慮すれば、ブログがある一定の範囲に向かって特殊化していく傾向は必然かつ適切だといえます。

*6. そしてセカンドライフ等の仮想世界型サービスは、「一つのキャラクターの身体が一つの場所にしかいることができない」という「真性同期」型のサービスであるため、擬似同期型に比べると、効率性の面ではどうしても劣ってしまう(「閑散化」やスケーラビリティの問題が生じる)、というのが筆者の以前の考察です(12-2)。

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。