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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第12回 セカンドライフ考察編(7) :「いま・ここ性」の複製技術としてのニコニコ動画

2007年8月16日

■12-1. 「いま・ここ性」の複製技術としてのニコニコ動画

前回・前々回を通じて、セカンドライフとニコニコ動画の比較分析を行ってきました。その分析結果とは、ひとことでいえば、セカンドライフは真性同期型アーキテクチャゆえに「閑散としている」ように見えやすい傾向にあり、その一方で、ニコニコ動画は擬似同期型アーキテクチャゆえに「活況を呈している」ように見えやすい、というものでした。おそらく2007年前半の(日本における)ソーシャルメディアの光景は、「セカンドライフは閑散としている一方で、ニコニコ動画は活況を呈している」と記憶されることと思われますが、それは単に「セカンドライフはつまらない/ニコニコ動画は面白い(つまらないものを面白くできる)」というだけではなく、「アーキテクチャ特性の差異」という点から理解できるということです。

いま一度振り返っておけば、この分析の最も重要なポイントは、真正同期型と擬似同期型では、「同じ場所・同じ時間を共有している」と感じること――現代思想的な表現をすれば「いま・ここ」性――の立ち現れ方が異なっているという点にあります。前者のセカンドライフの場合、一人の身体(アバター)は、一つの「場」(≒一つの時間・一つの場所)にしか存在することができません。そのためセカンドライフ上で感受される「いま・ここ」性は、その「場」に共在する人々の間において《一回的に》しか立ち現れることはありません。セカンドライフ上で体験しうるライブ感は、一回的であるがゆえに、蒸発しやすく、閑散化しやすいということ。これは私たちの「リアル」の世界とまったく同等の制約条件であり、その意味でも――「現実世界の光景を3D技術によって《視覚的に》模倣できる」という以上の意味で――、確かにセカンドライフはもうひとつの「現実世界」そのものということができます。

これに対し、擬似同期型のニコニコ動画では、必ずしもユーザー同士が互いに同じ時間・場所を共有していなくても、あたかも同じ「いま・ここ」を共有しているかのような感覚を得ることができます。その感覚は、動画の再生タイムラインに沿ってコメントを保存・再現するという、ニコニコ動画のアーキテクチャの作用によってもたらされる一種の「錯覚」です。客観的な視点(第三者的な視点)から見れば、非同期的な各ユーザーの行為も、動画を再生するユーザーの主観においては、リアルタイムなものとして「錯覚」される。この効果によって、ニコニコ動画は、ユーザー同士が同じ「場」(=動画)を共有していなくとも、効率的に「いつでも祭り中」の状態を生み出すことができます。

念のため注釈しておけば、ここでニコニコ動画の側に与えた「錯覚」・「主観」といった言葉は、一般的には、「不正確な」・「真実ではない」・「騙されている」といったコノテーションを含んでいます。しかし、当然ですが、ここでは「ニコニコ動画が何か利用者を騙している」であるとか、「ニコニコ動画の利用者は蒙昧な錯覚に捕らわれている」といった意味は持っていません。むしろニコニコ動画は、「正確に」各利用者の主観をシンクロナイズするアーキテクチャといえます。

それはどういうことでしょうか。ニコニコ動画の場合、各利用者の主観に立ち現れるコミュニケーションのフロー(コメントが連続して流れる様子)は、動画の再生タイミングにあわせて「正確に」反復・再現されています(もちろんその間にコメントが投稿されれば、コメント状態の世代差が生じるため、「同一性」が保持されるわけではありませんが)。そのためニコニコ動画は、どれだけばらばらに人々が動画を再生してコメントを投稿したとしても、あるユーザーが感受した「いま・ここ」性を、また他のユーザーに向けて正確に《複製》することができる。――以前筆者は、この「動画」が果たす役割を「定規」に喩えました(第3回)。「動画」というのは、(早送り・巻き戻し・一時停止は可能ですが、)「誰にとっても等しい時間と速度で再生される」という客観的な性能を持っており、ニコニコ動画はこの性能を、ばらばらに投稿されるコメントを「正確な」タイミングで保存・再現するための「定規」として利用しているわけです。

セカンドライフについての考察のはずが、すっかりニコニコ動画の考察になってしまいましたが――こうしたニコニコ動画の特徴をひとことで要約するとすれば、それは「いま・ここ性」の複製技術ということができるでしょう。よく知られているように、ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』の中で、かつて絵画・彫刻等の芸術作品は、「いま・ここ」に現前しているという《一回性》によって「アウラ」を持ちえたが、19世紀以降に台頭した写真・映画(フィルム)等の複製技術は、その《一回性》という条件を失ってしまったと論じました。この構図は、きわめてシンプルで直感的に理解しやすく(「CDよりもやっぱりコンサートで聴くほうがいい」という感覚の延長で理解可能)、それゆえにか幾度となく参照されてきました。

しかし、いささか大仰にいえば、ニコニコ動画の出現は、こうしたベンヤミン的な構図の前提そのものを崩してしまうものですらある。なぜならベンヤミンのいう「アウラ」とは、「一つの身体は一つの場にしか存在できない」という、いわばリアルワールド(≒セカンドライフ)の制約条件を前提にしていたのに対し、ニコニコ動画は、本来ならば「その場の一回限り」にしか生じることのない「いま・ここ」の現前を、アーキテクチャの作用によって《複製》してしまう装置だからです。芸術作品(コンテンツ)が複製可能なのではなく、それを「いま・ここ」で体験するという《経験の条件》が複製可能であるということ。それは情報環境=アーキテクチャの出現による、「複製技術」のラジカルな(根源的なレベルでの)進化と捉えることもできるでしょう。その意味では――いささか誇大妄想が過ぎるという印象を与えてしまうかもしれませんが――、ニコニコ動画は100年単位のインパクトを持ったメディア史的事件、といえるのかもしれません。

#ちなみに以前筆者は、Twitterもニコニコ動画と類似した「擬似同期型」(選択的同期型)のアーキテクチャであると論じましたが(第2回)、muse-A-muse 2ndでは、Twitterは瞬間的にアウラを発生させる装置ではないかと分析されています(muse-A-muse 2nd: twitterに宿るアウラ? (体験知と情報知))。

(12-2)へ続く


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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。