このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

「OpenSocial」は日本のSNSをめぐる状況を変えるのか?

2007年11月 8日

(これまでの濱野智史の情報環境研究ノート」はこちら)

■1. はじめに――「OpenSocial」について

前回の最後で、次回は「同期性」についての考察を再度展開すると予告していたのですが、この議論はそれほどup to dateな話題ではありませんので、今回は予定を変更して、先週Googleから発表された「OpenSocial」について考えてみたいと思います。

ご存知のとおり、「OpenSocial」とはSNS上のデータを外部からも参照・利用可能にするための共通のAPIというもので、日本ではmixiが対応を発表したことでも大きな話題になりました。米国では、すでにFaceBookがまさにそのようなAPI 「FaceBook Platform」を公開し、ウェブ・アプリケーションの一大プラットフォームとして急成長しており、GoogleはこうしたFaceBookによる囲い込みを防ぐ意味で「OpenSocial」でカウンターを当ててきた、という「Google VS. FaceBook」という図式で一般には把握されたようです。そして以前にyomoyomo氏も指摘されていたように、米国のFaceBookを中心とする活況に比べると、日本のSNSの状況は「どうにも話がしょぼ」かったわけですが、今回mixiの対応発表は、基本的に「FaceBookのようなWidgetの開発がmixiでも出来るようになる!」と歓迎されているようです。確かに、mixi上で何かWidgetのようなものが開発できるようになるとすれば、日本のウェブ・アプリケーションを巡る状況はだいぶ活性化することになるでしょう。

しかし、「その先」の展望についてはどうでしょうか。果たして「OpenSocial」の登場によって、日本でも「グローバルSNS」のような状況――それは「複数のSNSをまたがって、SNS上の人間関係データ(ソーシャル・グラフ)をオープンに利用できるようになる」といったイメージで語られているわけですが――は訪れるのだろうか? これは少し立ち止まって考えてみるべき問題だと思います。たとえば徳力基彦氏は、今回のOpenSocialの発表について、「歴史を見ればクローズドなものはオープンなものに必ず敗れる」という法則を引き合いに出すことで、日本のSNSをはじめとする状況の変化を期待してエントリを結んでいます。しかし、それはあくまで(ある特定の条件を満たした)「技術」や「スタンダード(標準)」にあてはまる技術史的法則であって、コミュニケーションをめぐる人々の「欲望」については必ずしも当てはまらない、というのが筆者の考えです。それはどういうことでしょうか。

■2. 「地域SNSのアライアンス」と「OpenPNE」

実はこれと似たような問題について以前に考えたことがあります。2006年の2月、前職のGLOCOMで「(地域)SNSのアライアンス」という研究会が開かれたのですが、そのときのテーマは、mixiのような巨大SNSが一人勝ちしている状況に対し、日本各地で生まれつつある地域SNSが分散しながら連携するというシナリオが考えられないだろうか、というものでした。このお題に対して筆者は、(少なくとも日本では、)「SNSの《分散》は求められても、その《連携》は求められないだろう」と回答しました。

その細かい議論は省きますが、そのとき考察の対象として挙げたのは、当時登場してまもなかった日本発のオープンソースSNSエンジン「OpenPNE」です。注目した点は2つありました。ひとつは、「mixiとインターフェイスがそっくり」ということ。開発する側の説明によれば、これは単にmixiをパクっているということではなく(しかし、誰もがそう思うほど本当にそっくりだったのですが)、むしろmixiのような使い慣れたユーザー・インターフェイスのままであることが人々に望まれているから、あえてそっくりにしているということでした(「“mixiそっくり”な理由は?So-netなど数千のSNSが使う「OpenPNE」,開発元の手嶋屋 社長に聞く:ITPro」)。ただし、この点はさして重要ではありません。より重要なのは――注目したもうひとつの点とは――、mixiそっくりなのに、それではなぜOpenPNEは人々に必要とされているのかという点です。開発側は、それを次のように説明しています:

SNSは、web上にありながらも日常のリアルな人間関係を色濃く反映するサービスである、と言われています。つまり、現実の人間関係と同じものが、SNS上でも発生するということです。そうなると、一つのSNSでは個人の全ての側面(タテマエ)に対応することが出来なくなります。
例えば、一つのSNSで会社の同僚と趣味の友人とをフレンド登録している場合、同僚に見せている側面と友人に見せている側面、どちらを出せばいいのか迷うことがあると思います。あまり人に知られたくない嗜好や、不特定多数には話しづらい内容など、様々な人が登録している大きなSNSだから見せられない、そんな側面を抱えている人がたくさんいるのです。
OpenPNEは、そんなそれぞれの側面(タテマエ)を大事にしたい、という思いに答えたいと思います。
株式会社手嶋屋 - OpenPNEとは

つまり、こういうことです。ごく凡庸に表現すれば、人は現実社会において、さまざまな「顔」を使い分けて生きている。だから、mixiというひとつのSNS上に、すべての人間関係を混在させてしまうことはするべきではない。現在のOpenPNEのウェブサイトにはすでに掲載されていないのですが、当時挙げられていた例は、もっと具体的なものでした。曰く、「ゴルフ・釣り好き VS 家庭内 (家族に休日のゴルフ予定がばれる)」「地元中学友達 VS 大学友達 (大学デビューしてはじけちゃってる姿を地元の友達には見せたくない)」「会社の同僚 VS ネット友達 (会社で実はまじめなことを、知られたくない)」……云々。いずれもほほえましい例ですが、実に的確な説明ではないかと思います。つまりOpnePNEは、「mixiを複数の帰属集団に応じて使い分けたい」という人々のニーズに応えたということ。いいかえるならば、OpnePNEの新規性は、その機能やインターフェイスといった点にではなく、それを複数に分散させることができるという点にこそ見出された、ということです。だとするならば、せっかく複数に分散したmixiを《連携》させるなど、もってのほかでしょう。むしろ、複数のSNSに多重帰属する自分の存在は、単一のIDのもとで紐付けられることなく、むしろバラバラなまま《連携不可能》でなければならないからです(*1)。

■3. mixiをめぐる「日本特殊論」

おそらく上のような欲望というのは、読者の方の中でも、「わかる」という人と「わからない」という人に二分されるのではないかと思います。「わからない」という人は、こう思われるかもしれません:「SNSというのは、さまざまなユーザーが自らの人間関係をウェブサイト上に転写することで、意外な人と人との繋がりを発見・発掘したり、さまざまなコミュニティを見て回って、興味があったらそこでの議論やオフ会に参加して、ガンガン自分の人間関係なり人脈なりを広げていったりするための、ポジティブなツールなんじゃないの」と。確かに日本では、そのようなものとして「米国でのSNSの利用形態」は紹介されてきました。会社の枠を超えてビジネスマンの履歴書公開サービスとして機能する「Linked In」から、SNS上のソーシャル・グラフを参照してWidgetがヴァイラルに普及していく「Facebook」に至るまで、そこには「数多くのユーザーがそのSNSを利用すれば利用するほど価値が高まる」という「ネットワーク外部性」への志向性はあっても、「場に応じてSNSを使い分け、それぞれを分断させておく」などといった「アンリンカビリティ」への志向性はおそらくないはずです。

しかし、――2007年にもなって、いまさら「mixi特殊論≒SNSに見る日本特殊論」を展開するのは大いに気が引けますが――日本のSNSの利用形態というのは、これとは大きく異なっています。いちいちその例は挙げませんが、特にリアルの人間関係をmixi上に持ち込んでいるユーザーの利用パターンというのは、1) 使い始めたばかりはとにかくマイミクを登録して足あとをみまくる「mixi中毒」状態 → 2) 使いまくっているうちに、リアルの生活上のトラブル(たとえばカップルの離別等)をmixi上に持ち込むかどうかで気を揉んでしまい、「mixi疲れ」に。あるいはそこでmixiをいったん退会してもう一度関係性を構築しなおすために「mxiiリセット」(*2) → 3) mixi上にはあんまり多くの人間関係を混ぜるのはトラブルの元と学習した結果、なるべくmixi上は波風立てないように常に配慮する「mixi倦怠期」へ、といったものになっています。ここで興味深いのは、もともとSNSは多種多様な人間関係を、ネットワーク&データベース上で整理・管理するのに便利なツールとして生まれたのかもしれないが、ことmixiに関していえば、その利用期間の長くなる後半になればなるほど、極力mixi上で人間関係の複雑性を増大しないように努めるようになっている、ということです。ここから考えるに、「ガンガンSNSを使って人間関係を拡大していく」というSNSの理想の利用イメージというのは――もちろん、そのようにSNSの利用を行っているユーザーも数多くいるのでしょうが――少なくとも日本では限定的であるといえるのではないでしょうか。

■4. 「文化の翻訳」が必要だ

結論をまとめましょう。日本のウェブ・コミュニケーションをめぐる欲望は、複数サービス間の「オープンネス」や「連携」ではなく、むしろ「アンリンカビリティ」や「分断」を求めている。このように日本のSNSをめぐる状況をざっと振り返ってみるならば、「OpenSocial」の登場によって、mixi内で何かWidgetが普及するということは十分ありえたとしても(*3)、複数のSNS的サービスを単一のIDによって貫通的に連携するような「グローバルSNS」的状況が到来するのは、望み薄だといえるのではないでしょうか。

もちろん日本にも、ブログやSNSやTwitterやTumblrやUstreamといった複数のサービスを貫通的に利用し、ネットワーク上で活発に「個」としての活動を展開する、「アルファブロガー」のような存在も一定規模存在します。しかし、彼/女らのような「イノベーター層」のニーズに適う、「SNS間共通のウェブ・アプリケーション」が開発されたとしても、それが果たして普及学でいうところの「キャズム」を乗り越え、残る大部分のフォロワー層に到達するほどに(要するにmixiに匹敵するほどに)普及するのでしょうか。この問いについては、次のように考えてみればいい。もし彼/女らがアーキテクチャ普及に関してキャズムを超えるほどのインフルエンスを持っているのならば、日本ではmixiもFC2ブログも登場することはなく、greeやMovable Typeやはてなダイアリーといった「当初イノベーター層が使っていたウェブ・アプリケーション」がそのままデファクト・スタンダードとして普及していたのではないか。しかし、現実はそうではなかった。おそらくここに観察されるキャズムの存在が、日本のネットワーク・コミュニケーションをめぐる状況を規定している以上、おそらく日本のSNSひいてはウェブ・アプリケーションをめぐる状況は、少なくとも米国とはかなり異なる形態で発展することは間違いない。少なくとも、「これでmixiもオープン化されて米国の状況に近づいていく」などといった単純な展開は期待できないとみたほうがいいでしょう。

さて、最後に補足を一つ。上に述べたようなことは、特に目新しいものではありません。むしろ何度も何度も反復されてきた問題です。ブログにせよ、SNSにせよ、基本的にその外見のレベルでは、米国でも日本でも同じアーキテクチャが使われているのに、それを利用するユーザーの側の欲望やコミュニケーション作法が異なる結果、(当初輸入されたアーキテクチャは普及曲線上に横たわるキャズムを乗り越えられず、)異なるイノベーションの経路が開かれていくという「異文化間屈折」現象については、これまでも少なくない論者が指摘してきました(*4)(ちなみに筆者のアーキテクチャに対する関心は、学生時代にブログの研究をしていたときからずっとそこにあります)。だからこそ筆者は、「OpenSocial」のような共通規格が、日本でまったく無意味であると主張するつもりもありません。要するに、「OpenSocial」によって日本のSNS状況に変化がもたらされるとすれば、そのコミュニケーション文化に最適化されたアプリケーション(*5)の開発――藤本隆宏氏の言葉を借りれば、コミュニケーション文化とアーキテクチャの「すりあわせ」――が必要だろう、と述べているに過ぎないのです(*6)。かつて「はてなダイアリー」を開発した近藤淳也氏は、「トラックバック」に対し「キーワードリンク」というブログ間のつながりのシステムを実装したことについて、その作業を(ソフトウェアの表面的な翻訳ではなく)「文化の翻訳」(NIKKEI NET, リンク切れのためInternet Archiveを参照)と表現しましたが、今回の「OpenSocial」の登場は、そんな言葉を筆者に思い起こさせました。

* * *

*1. こうした複数のSNSはばらばらに分断されているべきだという考え方に通じるものとして、「プライバシー」という概念を、複数のライフログ的サービス(リトルブラザーズ)間の「アンリンカビリティ(相互非接続性)」という観点から考察した、ised@glocom倫理研第6回での辻大介氏の講演内容が参考になります。

*2. mixiリセットについては、加野瀬未友氏が次のように考察しています:

人間関係をネットに持ち込んだソーシャルサービスにおいて、一端繋がった人間関係はすべて継続しているかのように扱われるが、実際には疎遠になった人間関係も多く出てくる。これをどう扱うかというのがポイントになるのではないかと以前は考えていたんだけど、実際の人間関係のように自然に遠くなるなんて曖昧な扱いは難しい。実際のところ、こうしたmixiリセットのような形で再整理していくというのが現実的な解なのだろう。
mixiリセットとケータイメールのアドレスを変えるのは同じ感覚-ネット上の人間関係再構築- : ARTIFACT ―人工事実―

例えば「『足あと』や『コメント』を1ヶ月以上付けなかったフレンドは自然にマイミクから外れていく」といった時限的性質を備えた、増井俊之氏の「Quick ML」ならぬ「Quick SNS」のようなアーキテクチャも考えられます(こうしたアイデアをすでに実装したSNSもあるのかもしれません)。しかし、これは加野瀬氏も引用しているように、SNSの利点の一つにめったにコミュニケーションを交わさない同士でも「年賀状を出すノリ」で繋がることができる点にもあるため、あまりに時限制約の過酷なアーキテクチャは、多くのSNS利用者には厳しすぎるかもしれません。

*3. もし仮に、mixi外のプレイヤーが開発したmixi上で動作するWidgetが普及するようになったとしても、それはmixiに強いネットワーク外部性が強く働いているからこそ普及するのであって、mixiのソーシャル・グラフ・プラットフォームとしての価値は増大するでしょうが、mixiの地位を脅かすことにはならないでしょう。そのような算段があるからこそ、「OpenSocial」への対応も表明されたと考えられるのではないでしょうか。

*4. たとえば筆者が以前に論じたニコニコ動画の「擬似同期型アーキテクチャ」を対象に取って、米国がブロードバンド・インフラの面で他国に遅れを取っている一方で、「動画コンテンツや仮想空間など,広帯域を必要とするアプリケーションの分野では,日本から新たなイノベーションが起こる」のではないかと指摘する向きもあるようです(「インターネットのイノベーション,今後は日本から?」:ITpro)。些細なことですが、上の記事でニコニコ動画は「10年に1度のコミュニケーションの大革命」と表現されていますが、筆者の考えではこれは「100年単位」のメディア史的事件です(12-1)。さて、それはともかく、筆者は上の記事で展開されている「ブロードバンド系アプリケーションの分野で日本は世界に先行するのでは」という状況認識についてはおおよそ同意します。これは単純な話で、ブロードバンド・インフラの整備された日本で、いち早くそれを活用したアプリケーションが出てくる、というのは自然なことです。上の記事ではそこまでしか触れられていないのですが、それではニコニコ動画のような日本発のイノベーションがそのまま世界(他国)にも通用するかという点に踏み込んでいえば、それは難しいのではないかと思われます。なぜなら本文中でも述べたように、アプリケーション層で生じるイノベーションには、そのアプリケーションを利用するユーザー側の文化・慣習・制度が反映されてしまうからです。

*5. 実はこれも昔考えたことがあるのですが、とりあえずアーキテクチャ=情報環境の特性を踏まえることで、「利用者の意識の上ではクローズドなサービスとして感受されるけれども、人々に意識されることのないアーキテクチャのレベルで相互にオープンである」(あるいはその逆)といったようなサービスが論理的には可能、というところで留まっています。あまりに抽象的すぎて、具体的なサービスのイメージにまで辿りつけていませんが……。

*6. 念のため留保しておくと、筆者は、こうした日本の特殊性をいたずらに強調するつもりもありません。それを設計主義的に「改良すべきもの」とみなすのか、あるいは保守主義的に「価値あるもの」とみなすのか、その立場もここでは留保しておきたいと思います(筆者の考えでは、それはケースバイケースとしかいいようがない)。ここでの筆者の立場は、「OpenSocial」のもたらす波及効果を予測するにあたって、「日本」という変数を立てることによって、ひとまず記述が簡略化されるという程度のものです。果たして「日本文化」なるものが「ある」のかどうか、といった存在証明をめぐる問題は、社会理論的には無視できない問題ではあるものの、ここで議論するには手に余る問題です。

フィードを登録する

前の記事

次の記事

濱野智史の「情報環境研究ノート」

プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。