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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第19回「初音ミク」をはじめとするニコニコ動画上のコンテンツ協働制作に関する考察

2007年11月 1日

(これまでの濱野智史の情報環境研究ノート」はこちら)

――「限定客観性」が可能にするネットワーク上のコラボレーション

■19-1. ニコニコ動画とオープンソース(or Wikipedia)の共通点

さて今回は、「初音ミク」をはじめとするニコニコ動画上の協働製作プロセスについて論じてみたいと思います(*1)。すでにこの現象については、いくつもの紹介がネット上でなされていますので、特にその中身について触れることはしません。ここで着目してみたいのは、こうしたニコニコ動画上のコラボレーション現象(初音ミク現象)が、しばしば「オープンソース」や「Wikipedia」といったネットワーク上のコラボレーション現象と類比的に語られている、という点です。そのごく一部として、以下の記事を挙げておきます:

・「テレビ関係者は「初音ミク」を侮ってはいけない デジタル家電&エンタメ-最新ニュース:IT-PLUS
・「WebLab.ota - 技術力が評価されるニコニコ動画 『初音ミク』
・「初音ミク現象に見る集合知活用型作品開発のポイント - ナレッジ!?情報共有・・・永遠の課題への挑戦 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]
・「初音ミク界隈に見る既視感のある光景 - アンカテ(Uncategorizable Blog)
・「analog » 初音ミク現象とハッカー経済学 (lang:ja only)
・「改変の連鎖とニコニコパブリックライセンス - アンカテ(Uncategorizable Blog)

いずれも興味深い論点が提示されているのですが、ここではニコニコ動画上のコラボレーション現象をおおまかに言い表したものとして、

完成度や洗練といったことは先ず考えなくて,とりあえずネット上に公開して,問題点はネット上の議論(コメント等)で発見し,解決もネット上にいる不特定多数の“調教師”(引用者注:「初音ミク」の歌声を調律するユーザーのこと)たちで取り掛かり,そこで解決できたところや成果物をまたネット上に公開して,皆でシェア(共有)する…そういったサイクルが出来上がっている.
WebLab.ota - 技術力が評価されるニコニコ動画 『初音ミク』

という文章を引いておきましょう。その内容を腑分けすると、ニコニコ動画上のコラボレーション現象のポイントは、1)不特定多数のユーザーがコンテンツの協働製作プロセスに関与することで、2)漸次的にコンテンツ(生産物)の質が改善されていき、3)その結果製作されたコンテンツは、ユーザーの間で共有され、他のコンテンツの素材(二次創作の対象)にもなる、という三点に分けられるのですが、これにさらなる一般的な表現を与えておけば、

・一点目は「組織形態」(既存のハイアラーキー型組織とは異なる、ネットワーク型の組織形態)、
・二点目は「生産される財の性質」(既存の工業製品=ハードウェアとは異なる、「常に製品の質を改善できる」というネットワーク・ソフトウェアとしての性質)、
・三点目は「財の所有形態」(既存のプロプライエタリ型の所有形態とは異なる、フリーorオープン型の共有形態)、

にそれぞれ着目している、と整理することができます。確かにこれらの点に着目したとき、ニコニコ動画上のコンテンツ制作のコラボレーション現象は、「オープンソース」や「Wikipedia」と多くの点で共通しています。例えばオープンソースやWikipediaに関しては、「The Wisdom of Crowds(集合知)」(James Surowieckiに同名の書籍あり)、「Mass Collaboration」(Don Tapscott と Anthony D. Williams の書籍『Wikinomics』の副題にある言葉)、「Commons-based Peer Production」(『Wealth of Network』「Coase's Penguin, or Linux and the Nature of the Firm」の著者Yohai Benklerの造語)等の数多くの言説が存在していますが、いずれも(論者によって重きを置くポイントに違いはあるものの、)上の三点を特徴として指摘しています。

■19-2. ニコニコ動画とオープンソース(or Wikipedia)の差異――それを「客観的」な基準で評価できるか否か

しかし、ここで筆者が着目したいのは、ニコニコ動画とオープンソース(or Wikipedia)を比較することで取り出すことのできる、ある一つの「違い」についてです。果たしてその見過ごせない差異とは何か。それは、先ほどの整理に従えば二点目の項目、すなわちネットワーク上の協働によって生み出される「情報財」の特性にあります。

それはどういうものでしょうか。かつてエリック・レイモンドは、「伽藍とバザール」の中で、オープンソース的開発手法が特に優れているのは、プログラムの精度検証(バグチェック)のリソースを広く効率的に確保できる点にあると論じました(引用:「第3節 「ユーザを共同開発者として扱うのは、コードの高速改良と効率よいデバッグのいちばん楽ちんな方法」)。ここから考えられるのは、オープンソースというコラボレーション形態が有効に機能するのは、その生産物である「コンピュータ・プログラム」が《客観的》に評価可能な指標――要は「速く正確に動くものほどよい」という明快な評価基準(*2)――を有しているからではないか、ということです。もし仮にその評価基準が曖昧だったとしたら、不特定多数のユーザーがバグチェックに協力しようとしても、効率的な協力を実現するのは難しくなってしまうでしょう。

Wikipediaに関するケーススタディからも、共通の見解を引き出すことができます。Wikipedia上で生産されているのは、その内容の《客観性》が最も重要とされる「百科事典」というコンテンツです。池田信夫氏も論じているように、Wikipediaの客観性≒信頼性は、「記述が最終的に「信頼できる情報源」にリンクできるかどうか」という「形式的」なルールに基づいている。それはしばしば空虚な形式主義に陥るというのが池田氏の批判ですが、ここでは、そのコンテンツ製作に関するルールが、極めて明快で《客観的》に存在しているという点が重要です。このように、オープンソースにせよ、Wikipediaにせよ、ネットワーク上のコラボレーション的製作活動が成立するには、「その生産物をある程度《客観的》に評価できる」という条件が必要になると考えられます。

これに対し、ニコニコ動画上で日々アップロードされる音楽・映像といった「コンテンツ」(作品)の場合はどうでしょうか。音楽や映像というのは、ごく一般的には「趣味的」な情報財カテゴリです。つまり、コンピュータ・プログラムや百科事典といった「道具的 instrumental」な生産物とは異なり、コンテンツを《客観的》に評価しうる外的基準は存在しておらず、最終的には「人それぞれ」の《主観的》な評価に頼らざるをえない(*3)。ここから、その精度を《客観的》に検証することが難しい「コンテンツ」については、オープンソース的な協働開発形態がそれほど有効には働かない、という仮説が成り立つはずだと考えることができます。

にもかかわらず、なぜニコニコ動画では、仮にもオープンソースに比肩されるような活発なコラボレーションが生じたのか? 筆者の関心の中心はここにあります。

この問いに対する解答は、そもそもの前提――プログラムや百科事典は客観的評価/コンテンツは主観的評価――をひっくり返すことで得られます。それはこういうことです:ニコニコ動画上において、もはや人々は、個々人ごとにばらばらな《主観的》な評価基準によってコンテンツを評価していないのではないか、と。少なくともニコニコ動画というコミュニティに参加するユーザーたちは、ほとんど《客観的》と呼べるほど明確に通有された評価基準――「それが『祭り』をもたしてくれるのかどうか」(*4)――を確立しているのではないか。

たとえば、それはマイリスト登録数や再生数による「ランキング」の高低や、「弾幕」の多寡等、さまざまなニコニコ動画上の「盛り上がり」を示す指標によって日々計測されているのですが、ここでは、ニコニコ動画上で消費されるコンテンツの「客観性」に関連する話題を二つほど挙げてみたいと思います。

その一つは、初音ミクを使って当初よく製作されていた、「歌わせてみた」と呼ばれる「物まね」系のコンテンツです。ネット上では、初音ミクに限らず、しばしば物まねコンテンツが大きな注目を集めてきたといえるのですが(その最たる例が、数年前に話題になったkobaryu氏の「VIP STAR」でしょう)、なぜ物まねはネット上で受けやすいのでしょうか。それは物まねには、「客観的」なコンテンツの評価基準――どれだけ本物にそっくりかどうかということ――があるからです。だからこそ、物まねというジャンルに数多くの才能と協力者が集まるのではないか。

もう一つは、ニコニコ動画上のコメントやタグでよく使われる「国歌」という表現です。正確にはいつごろからこの形容表現が使われたのか、筆者は詳しくは知らないのですが、ニコニコ動画では、「鳥の詩」(美少女ゲーム『Air』の主題歌)のように、とりわけ人気の高い(コンテンツで使われている)楽曲が流れると、「国歌キター」とか「これ国歌にしようぜ」といったコメントが投稿されることがあります。いうまでもなくこの「国歌」という比喩的表現には、「誰もが知っていて当然である」という《客観性》のニュアンスが込められています。例えば「組曲『ニコニコ動画』」という楽曲は、まさにこうしたニコニコ動画上で「国歌」といえるような人気・知名度の高い楽曲を集めたがゆえに(*5)、その後に続いた歌い手・替え歌・ムービーまで、さまざまな協働製作の連鎖に繋がったといえるのではないでしょうか。

■19-3. ニコニコ動画上に成立する「限定客観性」

以上の議論をまとめましょう。ニコニコ動画上でのコラボレーションは、確かに活発で多様な作品を生み出しているけれども、それが可能になっているのは、コンテンツの評価基準が《客観的》と呼べるほど明確に存在しているからではないか。これが筆者の考えです。

ただし、その《客観性》の通有されている範囲は、あくまでニコニコ動画の「内側」に限定されているという点もまた重要でしょう。なぜなら、それは次のような分裂をもたらすからです:その内側にどっぷりと属しているユーザーから見れば、それは「『神』のような歌い手/調教師/職人たちによって、日々すばらしいコンテンツが創作されるすばらしいコミュニティ」に見える。しかし、その外側に属しているユーザーから見れば、「どれも似たり寄ったりで何が面白いのか分らない」と揶揄的にみなされてしまう(その最たる例がTBSの報道だったといえるでしょう)。その評価はそれこそ「人それぞれ」としかいいようのない問題ですが、ここで重要なのは、この二つの見解はいずれも「正しい」ということです。なぜなら、ニコニコ動画上で共有されているコンテンツの評価基準は、そのコミュニティにおいてのみ通用するという意味で、――H.A.サイモンの言葉をもじるならば(*6)――「限定客観性 Bounded Objectivity」とでも呼ぶべき性質を有しているからです。

「コミュニティの内部では普遍的で客観的であるかのように成立している基準が、外側からは理解不可能である」ということ。もちろんこうした「限定客観性」の問題は、取り立ててニコニコ動画に限った問題ではありません。いまや何かを愛好するファンたちの集うコミュニティというものは、常にそのような問題に晒されています。価値観の多様化した現代社会においては、何かを愛好するということは、2ちゃんねる風にいえば即座に「○○信者」や「○○厨」であるとレッテルを張られてしまうほかなく、その「アンチ」との終わりなき闘いを余儀なくされる。さらにいえば、それは情報社会(現代社会)に特有の問題でもありません。言語や民族や国家や宗教といった人工的な境界線によって、人間社会は常に「限定客観性」の――それが誰にも自明な形で「ある」と確かに想像することのできる――有効範囲を画定してきたといえるからです。

しかしその一方で、情報社会とは、こうした「限定客観性」の有効範囲を、ほかならぬアーキテクチャ(情報環境)によって画定する社会のこと、とさしあたり定義することができるのではないかと筆者は考えています。その一例が、まさにニコニコ動画です。というのも、こうした「限定客観性」を生み出す装置として、ニコニコ動画の「擬似同期型アーキテクチャ」はとりわけ有効に機能していると考えられるからです。次回はこの点について、「同期型コミュニケーション」の特性を改めて考察してみたいと思います。

* * *

*1. 今回のエントリを書くにあたって、「muse-A-muse 2nd」のm_um_uさんから「初音ミク」に関するリクエストがきっかけになりました。

*2. もちろんコンピュータ・プログラムの評価基準として、コードの「美しさ」もしばしば挙げられるのですが、その「美しさ」を正当化するためのロジックとして、例えば「きれい(≒クリーン)かどうか」(クリーンなほうがプログラムの不具合を探しやすい/保守がしやすい)、「数学的に『エレガント』かどうか」(そのほうが無駄な演算もなくプログラムの動作が高速)といった基準が挙げられます。これらは結局のところ、「そのプログラムを有効に機能させることができるかどうか」という基準に従属していますので、大きくいえば「客観的」な基準の側に属しているといえるでしょう。

*3.「いやいや、『美』には《客観的》な基準があるのだ云々」という主張は、歴史的に見てもさまざまな形で主張されてきたわけですが、少なくともここでは、「全人類の歴史に共通するような、客観的で普遍的な美の基準というのは存在してこなかった」というごく一般的な認識を確認しているに過ぎません。また「美」については、対象の側に普遍的な共有の要素はないけれども、「美」というものを感じうる人間の認識作用(判断力)は普遍的である、とみなすカントのような立場もあります。

*4. これはつまり、2ちゃんねるから連綿と受け継がれてきた「ネタ的コミュニケーション」(鈴木謙介)や「繋がりの社会性」(北田暁大)への《欲望》が、ニコニコ動画上では広く通有されている、ということです。ただし、それが直ちにニコニコ動画を「批判」したり「過小評価」したりする理由にはならない、と筆者は考えています。本文中でも触れましたが、そもそもオープンソースの生産物はアプリケーションやOSといった《道具的 instrumental》なソフトウェアであるため、社会的にその有用性についての合意を確保しやすく、その一方で、ニコニコ動画の生産物はコンテンツという「趣味的」なソフトウェアであるため、その価値に対する合意が確保しづらい(「よさ」に対する客観的な基準が存在しない)。これはつまり、「ニコニコ動画上では、ネット中毒者たちの『繋がり』への欲望を満たす、《自己充足的 consummatory》なネタが数多く生産されているに過ぎない」といった批判をしたとしても、――それはもちろん否定しようもなく「正しい」指摘ではあるのですが――それは「有用性/非有用性」という二項図式に依拠したイージーな(自ずから明らかで「通り」のいい)主張でしかない、ということです。以前も「若者論」との関連において触れましたが(6-2:「インストゥルメンタル/コンサマトリー」という二項図式)、少なくとも情報環境研究の立場からは、その主張は意図的に回避すべきだと筆者は考えています。

*5. もちろん実際には、すべてのユーザーが、「組曲『ニコニコ動画』」に使われているすべての元ネタ楽曲を「知っている」必要はありません(筆者も初見時には知らないもののほうが多かった)。ただし、一曲でもこれは「国歌」だろうと感じる曲が入っていて、しかも自分の知らない他の楽曲パートで怒涛のごとく盛り上がる弾幕を見てしまうと、「これは知っていないとまずいのではないか」という感情が宿り、元ネタ楽曲に関するコンテンツを検索して観て回るようになります(実際筆者もこのパターンですっかり「東方」のファンになってしまった)。「組曲『ニコニコ動画』」には、こうした「ニコニコユーザなら知っていて当然」という「限定客観性」の範囲を押し広げ、確かなものとして通有させる効果があったように思われます。

*6. ここではH.A.サイモンの「限定合理性 Bounded Rationality」――人間は合理的存在であろうとするけれども、その自らの「認知限界」の制約によって、あくまで限定的な合理性に留まってしまう――という概念を念頭においています。これをパラフレーズするならば、「限定客観性」とは、情報社会において人々はしばしば「客観的」な基準を必要とするけれども、社会が抱える価値の多元性という制約によって、あくまで限定的な客観性に留まる、という事態を指しています。

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。