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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第15回 セカンドライフの「わかりやすさ」について考える(3)

2007年9月 6日

――セカンドライフ考察編(11) 【最終回】

(15-1)から続く


■15-2. セカンドライフという「失われた隠喩」の再来――「サイバースペース」はなぜそう呼ばれなくなったのか

さて、いささか抽象的な話が長くなってしまいましたが、ここで少し歴史的経緯を振り返っておけば、インターネットが一般社会に浸透していくに従って、この10年の間に、いわゆる「サイバースペース」的な《空間性》のイメージはむしろ衰退し、ブログやSNSの隆盛に見られるように、《関係性》のイメージが前景化してきたということができるでしょう。東氏がおよそ10年前に「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」と書いてから以降、実際のところインターネットが「サイバースペース」と呼ばれることは少なくなったように思われます。いまや掲示板やブログやSNSをそう呼ぶことはほとんどありませんし、数年であれば「ネットコミュニティ」という呼称が、そして現在であれば「CGM」等の呼称が一般に用いられています。その意味では、「サイバースペースはなぜそう呼ばれなくなったのか」という問いのほうが、この10年のインターネットの歴史を社会学的に考えていく上では重要なのかもしれません(*1)。

ここで前回(第14回)の議論を振り返っておけば、ブログやSNSといったWeb 2.0/CGM的な世界では、「関係性」が複雑に入り組んでいるために、そこに参与していない人々から見れば、極めて「わかりにくい」ものになってしまったのではないかと述べました。つまり、「サイバースペース」という空間的隠喩の効果が次第に失われていくに従って、インターネットは、膨大な情報財と関係性の雑駁な「集積」へと変貌し、もはやそれを空間的に見通すことは不可能になってしまった、というわけです。

だとすれば、「インターネットに慣れ親しんでいない人々こそが、とりわけセカンドライフに魅了される」という現象がなぜ起こったのかについて、次のように理解することができます:こうした人々にとって、セカンドライフというサービスは、「サイバースペース」という失われた空間的隠喩の《再来》として歓迎されたのではないか。なぜなら、前節で触れた《ひとりの人間がひとつの場所でひとつのことをする》という「サイバースペース」の舞台設定は、まさに「セカンドライフ」にそのまま当てはまるものだからです。10-3でも論じたように、「真性同期型」のセカンドライフは、「身体(アバター)の単一性」「場の単一性」「出来事の単一性」という、現実世界と同等の条件を持っています。だからこそ、セカンドライフは彼らにとっても「わかりやすい」ものたりえたのであり、こぞって大企業がセカンドライフに進出する要因にもなったのではないか。

これは裏面を返していえば、「関係性」の世界をすでに享受している人々――ブログやSNSといった「Web 2.0」的世界を十分に謳歌しているユーザたち――から見れば、いまさら「空間性」の世界を持ち出されても、何が面白いのか直感的に理解できない、ということでもあります。関係性の世界の面白さとは、いいかえれば「繋がりの社会性」(6-1)がもたらす刺激や興奮であり、それは誰がその「ネタ」を面白いと感じているのか/つまらないとバッシングしているのか、といった場の空気を常に読み取ってコミュニケーションを連続させることでもたらされます。こうした感受性を鍛えた人々にとっては、誰もおらずに「閑散としている」――《空気が読めない》どころか《空気すらない》――セカンドライフに入ってぶらぶらするよりも、さっさとそのキャプチャを保存し、ブログ上でセカンドライフをバッシングする記事を書いているほうが「楽しい」と感受される。だからこそ、つい最近まで、セカンドライフ・ブームについてブログでこき下ろすという現象自体が、ある種のネット上のブームにもなったわけです。

以上の考察をまとめれば、セカンドライフの企業進出とそのバッシングという一連の現象は、インターネットという世界を「空間」(サイバースペース)とみなすのか、それとも「関係性の束」としてみなすのか、といった理解方式を巡る対立軸を背景にしているということです。いずれにせよ、今後もしばらくは――「セカンドライフ」というサービスが仮に失敗したとしても、成功したとしても――インターネットの理解方式を巡る「関係性/空間性」という対立軸は、幾度か反復されることになるでしょう。そしておそらくこの対立の構図は、単に「関係性」のほうがインターネットにとっては本質的で、「空間性」は傍流に過ぎない、と簡単に片付けることはできないものと思われます。少なくとも筆者は、「セカンドライフは、インターネットの《本質》であるところの『関係性』ではなく、『空間性』を持ち上げる時代錯誤なサービスだからダメ」といった主張をするつもりはありません。なぜならインターネットの本質は「関係性=リンク」にある、といったような《本質論》は、どれだけその主張が「自然」で「当たり前」に見えたとしても、やはりそれは「自然的な性質」ではないからです。

ちなみに筆者が、一連のセカンドライフやニコニコ動画をめぐる分析において、「閑散としている」/「活況を呈している」かのような《錯覚》を得られると表現してきましたが、これも同様の意図に基づいています。すなわち9-3でも論じたとおり、アーキテクチャの《本質》なるものはなく、そのようなものがあるとすれば、アーキテクチャの設計次第で生じる「錯覚」や「学習効果」の結果、そう感受されているに過ぎない(*2)。余談ですが、こうしたアプローチは、情報環境研究における一種の「カッコ入れ」の作業に相当すると筆者は考えています。

* * *

*1: とはいうものの、何よりもまず「ホームページ」や「ウェブサイト」といった基本用語をはじめとして、「ブロゴスフィア(blogosphere:ブログ)」であるとか、「mixiはネット上のゲーテッド・コミュニティだ」(isedキーワード「ゲーテッド・コミュニティ」)といった表現に至るまで、ネットカルチャーの世界では、しばしばなんらかの空間的なメタファが採用されてきたという経緯があります。ですからこの10年のインターネットの歴史において、完全に空間性の隠喩が失われたというわけではない、という点にも留意しておく必要があるでしょう。


*2: 確かにアーキテクチャに「本質」なるものはありませんが、その一方でアーキテクチャは、「ニコニコ動画」の分析でも明らかになったように、利用者間に等しく「錯覚」をもたらすことで、本来メディアがもたらすはずの《ズレ》を意識させることなく、「いま・ここ性」の複製を行うこともできるわけです(12-1)。錯覚(≒主観)に過ぎないはずの体験が、「間主観的」にも等しく成立させられるというこのアーキテクチャの特性については、近いうちに改めて論じる予定です。

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。