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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第15回 セカンドライフの「わかりやすさ」について考える(2)

2007年9月 6日

――セカンドライフ考察編(10)

(濱野智史の「情報環境研究ノート」」第14回より続く)


■15-1. 「サイバースペース」という空間的隠喩――「サイバースペース」はなぜそう呼ばれるか

前回からの続きです。前回筆者は、とりわけブログやSNSといったネットワーク的世界に縁遠い人々にとって、セカンドライフという「仮想空間型」のサービスは「わかりやすい」ものに見えるのではないか、と指摘しました。ブログやSNSは、「リンク」が複雑に絡み合ったリゾーム状の「わかりにくい」世界であるのに対し、セカンドライフは、現実の世界を模倣した「わかりやすい」世界だというわけです。

以上の仮説は、先ごろ上梓された東浩紀氏の『情報環境論集』(講談社BOX、2007年)に収められている、「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(連載は1997年~2000年)という約10年前に書かれた論考に大きな示唆を受けています。この論考で東氏は、そのタイトルに端的に示されている通り、次のような問いを立てています:いわゆる電子的なネットワーク上には、「サイバースペース」と呼ばれるような「空間」は物理的に存在しておらず、実際に存在するのは、「情報とその流通の支持財、すなわち電話線やアンテナやモデムやチューナやコンピュータの集積でしかない」(前掲書P.214)にも関わらず――前回までの言葉を使えば、そこにはなんらかの「関係性≒リンク≒ネットワーク」しかないにも関わらず――、なぜ人々はそれを「サイバースペース」という《空間的》なイメージで捉えているのだろうか、と。

東氏は実にアクロバティックにその考察を進めているのですが、ここではその取っ掛かりを紹介するに留めておきましょう。「サイバースペース」や「仮想空間」という言葉は、パソコンやインターネットがいまほど大衆的に普及する以前に、SF用語として生まれました(ちなみに「サイバースペース」という語が最初に使われたのは、サイバーパンクの代表的作品、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』(1984年)であるという事実はよく知られています)。そして東氏は、『ニューロマンサー』がなぜ「サイバースペース」という舞台装置を必要としたのかについて、次のように考察しています。以下に要約すれば、

『ニューロマンサー』はしばしば「サイバースペース・カウボーイたちのハードボイルド風ピカレスクロマン」とも称されるように、舞台装置こそ目新しいけれども、実際の小説の構造自体は極めて古典的なものだったといえる。つまり、この作品において「サイバースペース」という空間的な隠喩は、「《ひとりの人間がひとつの場所でひとつのことをする》」という古典的な小説構造を持ち込むために要請された。「その隠喩は、本来は「ひとりの人間」「ひとつの場所」を二重化し解体するはずのメディアを、それ自体ひとつの「場所」として描くことを可能にしてくれる。」(前掲書P.219)

というわけです。

ここでは特に、「ひとりの人間」「ひとつの場所」を二重化し解体するはずのメディアという点について若干の補足しておきましょう。現実のコミュニケーションの場面――いわゆる「FTF(Face To Face)」とよばれるような、なんらかの「メディア=媒介」を介さず、面と面を向かって会話している状態――においては、身体とコミュニケーション、あるいは時間と場所という二つの要素は、ぴったりと一致しています。「目」の前にいる相手の口から「声」が聞こえるというように、あるいは、私とあなたは同じ「いま・ここ」を共有しているというように、リアルのコミュニケーションは「同期的」になされます。

しかし、メディアという存在は、これらの結びつきをアンバンドル(≒非同期化)する作用を持っています。大澤真幸氏が『電子メディア論』(新曜社、1995年)で紹介している例が端的でわかりやすいのですが、例えばボブという男性が、街中の電話ボックスで、姿を見たことのないアンという名前の女性と電話をしているとしましょう。と同時に、このときボブは、電話をしながら、通りの向こう側の電話ボックスに女性が入っているのを見ています。ただし、ボブは、この向こう側の電話ボックスにいる女性が、いままさに自分が話をしているアンだということに気づいていません。そして、このとき、暴走するタンクローリーが、通りの向こう側の電話ボックスに突っ込もうとしていることにボブは気づきます。しかしボブは、向こうの電話ボックスの女性に対し、危険が迫っていることを身振り手振りを使って必死に示そうとはするのですが、電話口のアンに対して何も言わないのです(前掲書P.23-24, 「I 電話するボブの二つの信念」)。おそらくボブは、「目」の前で不幸な交通事故が起きてしまったその瞬間、電話先からはツーという音声以外は何も「耳」に届かなくなることで、その事故がいまさっきまで会話していたアンの身にもたらされるものであると理解することになるでしょう。この例ではまさに、電話というメディアの存在が、「目」と「耳」という情報経路を統合して判断することを妨げてしまっているわけです。

このように、メディアなるものは、複数の情報処理経路間の《ズレ》を引き起こしてしまう。そして東氏は、フロイトの理論を参照しながら、こうした複数の情報処理の《ズレ》こそが、「不気味なもの」という感覚を生み出すと指摘し、その「不気味なもの」を《悪魔祓い》するためにこそ、「サイバースペース」という空間的な隠喩が求められるのではないかと論じています(*1)。すなわち、《ひとりの人間がひとつの場所でひとつのことをする》という、現実空間に等しき世界を電子メディア上に空想することで、メディアがもたらす《ズレ》を回避しようと人々は考えているのだ、と。

(15-2)へ続く

* * *

*1: ちなみに、「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」と同時期に書かれた東氏の論考、『存在論的、郵便的』(新潮社、1998年)の第三章「郵便、リズム、亡霊化」では、ジャック・デリダの『葉書』の読解を通じて、「電話(=声)」と「手紙(=文字)」というメディアの速度差と《ズレ》に関する考察が展開されています。

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。