第9回《Twitter/ニコニコ動画編》 まとめと結論
2007年7月26日
(濱野智史の「情報環境研究ノート」」第9回より続く)
■9-1.《Twitter/ニコニコ動画編》のおさらい
今回で、いよいよ《Twitter/ニコニコ動画編》の最終回になります。まず、前回の議論を振り返っておきましょう:「メディア・リッチネス理論」の用いるリッチネスの高い/低いメディアという区別は、Twitterとニコニコ動画に関する一連の分析で用いてきた「同期/非同期」という図式と重なっていることを指摘しました。会議や電話等の「真性同期型」のコミュニケーションはリッチネスが高く、メールやレポート文書等の「非同期型」のコミュニケーションはリッチネスが低い。つまり、「同期型メディア」は「多義性」の縮減――アジェンダ・セッティングが不透明な状況下で、問題の所在を探り当てること――に適しており、「非同期型メディア」は「不確実性」の縮減――問題の所在が明らかな状況下で、タスクを処理するために不足している情報を補うこと――に適している、ということができます。
ここで得られた知見を、いま一度、「擬似同期型アーキテクチャ」の考察に差し戻してみましょう:第7回で確認したように、掲示板やブログといったCMC上で「炎上」・「祭り」・「ネットイナゴ」といった現象が頻発してしまう――「繋がりの社会性」が前面化してしまう――のは、WWWという言説空間が「オープン open」であるがゆえに、コミュニケーションの然るべき文脈の共有が困難になると同時に、メッセージの意図を解釈する行為がずるずると引き伸ばされてしまうからでした[*1]。たとえば、よく見られる炎上のモデルというのは、次のようなものです。ごくプライベートな範囲で読まれることしか想定していなかったブログの内容が、2ちゃんねるやブログ等の他の場所からリンクないしはコピペされることで、異なる文脈下で解釈行為が行われる。その結果、書き手も当初予想もしなかったような過激な反応が引き起こされてしまう。こうした事態を、北田暁大氏は『「実はコミュニケーションとは内容やメッセージの伝達ではなく、あくまでそれを解釈するコンテクストをめぐる闘争なのだ」という身も蓋もない真理をあらわに表面化させてしまった』ものであると表現しています(ised@glocom倫理研第3回)。
上のように、CMC上で多様な解釈が混在してしまう事態は、「メディア・リッチネス理論」の言葉で置き換えれば、「多義性」という問題をはらんだ状態に近しいということができます。しかし、掲示板やブログといったアーキテクチャは、基本的に「非同期型」であるがゆえに、「多義性」を縮減するのには適していません。「非同期型アーキテクチャ」は、ある問題意識を共有しているグループの間で、不足している情報を互いに補うためのグループウェアとしては有効に機能しますが、価値観も関心も問題意識も作法もばらばらな人々が集まる「多義的」な状況においては、本来的には有効に働かないということです。これはかつてよく言われていた例でいえば、メーリングリスト上で「空気」の読めない人が入ってきたとたんに、議論がままならなくなる状態を想起してもらえればいいでしょう。
ただし、「非同期型アーキテクチャ」は、本来「多義性」の発生しやすい場所でのコミュニケーションには向いていないはずなのですが、現実のネットの世界を見れば、掲示板(2ちゃんねる)もブログも、一大ネット文化のプラットフォームとして十分に機能しているように見えます。これはなぜかといえば、上に指摘した「非同期型アーキテクチャ」の弱点が、いわゆる「ユーザー文化」の存在によってカバーされているからです。たとえば2ちゃんねるであれば、まともな(マジな)議論をするという態度自体を基本的な放棄し、あらゆる情報をネタ的に屈折して読み込むという「眼差しの作法」――この作法は、深夜ラジオや雑誌の読者投稿コーナーにおける、「ハガキ職人」的な文化から引き継がれたわけですが――がそれにあたります。こうした2ちゃんねるの「ネタ化の作法」は、「多義性」という問題をいわば《解決》するのではなく《解消》すること――2ちゃんねる風にいえば《スルー》すること――に成功しているということができるでしょう。また、いわゆる「ブログ論壇」と呼ばれるような世界では、たとえば経済的な問題に関しては「アルファブロガー」、「非モテ」等の文化的な問題に関しては「はてなダイアリー」というように、主要なアジェンダごとにブログの「棲み分け」が行われています。こうした自然発生的な「ユーザー文化」によって、「多義性」の問題は《解消》ないしは《解決》されてきたのです。
さて一方、当のメディア・リッチネス理論は、こうした「多義性」の問題に対して、「同期型(=メディア・リッチネスの高い)」のメディアを用いるのが最適であるという処方箋を提示しています。確かに、IMやチャット等の「(真性)同期型アーキテクチャ」は、コミュニケーションに参加する人間がある程度限られる(WWWに比べて「クローズド closed」な性質を持つ)と同時に、会話中のフィードバックが即時になされるため、「沈黙」や「反応速度」等の行為が文脈情報資源として利用できることから、ブログや掲示板等に比べて「多義性」を縮減するのに適しているといえます。しかし、こうした「真性同期型アーキテクチャ」が、ブログや掲示板のような、社会的規模での参加者を擁した「パブリックな」コミュニケーション空間を実現することは困難でした。それは技術的な理由もさることながら、第5回でも論じたように、「真性同期型」のコミュニケーションは、「非同期型」に比べて参加する際のコストが高く付いてしまうという性質を持つからです。それゆえIMやチャット等の「真性同期型アーキテクチャ」は、同時最大で十数人程度をカバーする、「プライベートな」通信手段として利用されるに留まっていました。
■9-2. 結論:「擬似同期型アーキテクチャ」の機能主義的分析
以上の議論をまとめましょう。「多義性」という概念は、もともと組織論の文脈で提出されたものではあるのですが、昨今のメディア状況、とりわけインターネット上のコミュニケーションの錯綜状況を言い表しているように思われます。改めてその基本的な認識を再確認しておけば、現代社会は、インターネットの出現によって、多様な価値観・関心に基づく小規模なコミュニティ(COI: Community of Interest)が林立する――かつて10年以上前に、社会学者の宮台真司氏が「島宇宙化」と呼んだ事態がますます進んでいく――一方で、マスメディアが果たしている「アジェンダ・セッティング効果(議題設定効果)」はいよいよ弱体化しつつある。すなわち、「何がいまアジェンダなのか」に関する共通認識が欠落してしまうという「多義性」の問題に、(企業組織だけではなく、)誰しもが直面している状況といっても差し支えないでしょう。
こうした「多義性」という問題の縮減に適しているのは、「メディア・リッチネス理論」によれば「同期型メディア」です。しかし、従来型のCMCのアーキテクチャでは、その処方箋を実践することが困難でした。これまでのCMCのアーキテクチャを整理すれば、次のようになります:
- ブログや掲示板等の「非同期型アーキテクチャ」は、大量の参加者を擁する「ソーシャルウェア」としてスケール可能だが、大量の参加者の存在によって不可避的に発生する「多義性」の縮減には適さない。
- IMやチャット等の「(真性)同期型アーキテクチャ」は、「多義性」の縮減には適しているが、「ソーシャルウェア」としてはスケールしない(せいぜい「グループウェア」の規模でしかスケールできない)。
つまり、同期/非同期型アーキテクチャの間には、《「多義性」の縮減》と《スケーラビリティ》のトレードオフが存在するということです。そして、このトレードオフ問題に対する解答として生まれたのが、Twitterやニコニコ動画等の「擬似同期型アーキテクチャ」なのではないか。実際には「非同期的」になされているコミュニケーションを、アーキテクチャの作用によって、あたかも「同期的」になされているかのように錯覚させるという「擬似同期型アーキテクチャ」の効能は、上のように整理することができます。
また、すでに第7回において、筆者は『Twiiterやニコニコ動画といった「擬似同期型アーキテクチャ」は、前世代までのCMC上の問題をアーキテクチャ的に解決する役割を果たすものとして出現したのではないか』と指摘しておきました。これまで、掲示板やブログといった「非同期型アーキテクチャ」に宿ったネットコミュニティ文化においては、「多義性」という問題はいわば「文化的に」解消・解決されてきました。これに対し、「擬似同期型アーキテクチャ」は、文字通り「アーキテクチャ的」な解決を実現しているとみなすことができる。以上が、「擬似同期型アーキテクチャ」に関する機能主義的分析の結論になります。
■9-3. (補論)アーキテクチャの「意図せざる設計」
最後に、本論が「機能主義的分析」と呼んできた一連の分析の「狙い」についても簡単に書いておきたいと思います。
まず、注釈しておきたいのは、上の結論は、「Twiiterやニコニコ動画の設計者が、既存のCMC上の問題を理解し、それを解決しようと考えた上で、『擬似同期型アーキテクチャ』を設計した」ということを主張するものではありません。とはいえ、その可能性を否定する意図も全くありません。つまり、設計者の意図の有無は、ここではあまり本質的な問題ではない。筆者が論じたいのは、設計者が意図したかどうかに関わらず、そしてさらに付け加えるならば、利用者の側もある程度非自覚的(無意識的)なままに、上に論じたような「擬似同期型アーキテクチャ」の効能が発現したのではないか、ということです。
筆者は第1回で、「アーキテクチャ」の特性として、「設計者の権力意図を利用者に意識させないままに、人々を操縦することができる」という点を挙げました。しかし実際には、――しごく当たり前のことなのですが――全てのアーキテクチャが、設計者の意図通りに作動・機能を実現するわけではない。たとえばTwitterやニコニコ動画の場合、これらは数多く存在するコミュニケーション・ツール/動画共有サービスの中から、利用者の側によってその効能が非自覚的に「発見」されることで、いわば自然淘汰的にその頭角を現してきたケースといえるでしょう。つまり、本分析の目的は、社会学の言葉を使えば「意図せざる結果」あるいは「潜在的機能」(R. K. マートン)としてのアーキテクチャの効能を抽出することにありました。アーキテクチャ概念の提出者レッシグもかつて指摘していたように、CMC(サイバースペース)に本質的な特性というものはなく、アーキテクチャの作動・機能はその設計次第で《いかようにも》変わりうる[*2]。重要なのは、それが《どのように》変容するのかです。その変容の一パターンとして、今後も本ブログ「情報環境研究ノート」には、上の言葉をモジるならば、アーキテクチャの「意図せざる設計」についての知見を書き留めていくことになると思います。
――まだまだ残した論点は多いのですが、《Twitter/ニコニコ動画編》は以上で終えることにしたいと思います。次回はその応用編として、ここまでの道具立てを使って、ここ1年ほど注目を集めている――そして最近ではその盛り上がりが「バブル的ではないか」と揶揄されることも多い――「セカンドライフ Second Life」について分析してみたいと思います。
* * * * *
[*1] ここでは、「炎上」や「祭り」といった現象が頻繁に引き起こされる第一次的な要因として、WWWのオープン性を挙げていますが、さらに第二次的な要因として、次のようなものを考えることができます。掲示板やブログ等、「非同期型アーキテクチャ」が中心となるWWW上では、第2回でも引用したARTIFACTの加野瀬氏が指摘するように、WWW上のコミュニケーションは「常に双方向な訳ではなく、基本的に一方通行で、たまに相手から反応があった時のみ双方向になる」(ARTIFACT)という性格を持ちます(ちなみに、ウェブ日記やブログを書くという行為を、斎藤環氏は、ビンに手紙を詰めて海に流す「投瓶通信」の比喩で表しています。つまり、「ネット上に何かを書けば、どこかには届いて誰かがそれを読んでくれるかもしれない」という心理によって、人々はWWW上での「独り言」の発話に動機付けられるというわけです)。こうした「双方向性の希少さ(レア度の高さ)」という特性は、裏を返せば、掲示板やブログ上で、「炎上」や「祭り」や「ネットイナゴ」という現象が、しばしばネット上で広く注目されるに至るのか――野次馬的な参加者を多く集めていくのか――を暗に説明しているように思われます。
それはこういうことです。インターネットは、本文でも述べたように、関心の矛先もアジェンダもばらばらに散らばった、基本的には「多義性」の高い空間である。こうした状況において、「炎上」や「祭り」といった事件に野次馬的に言及が増大していく現象というのは、それ自体が、「いまこの事件こそが注目に値する」というアジェンダ・セッティングのためシグナル――いわば「のろし」のようなもの――として機能している、ということです。つまり、ネット上の集合的沸騰状態は、人々がアジェンダを確保し、「多義性」を縮減するための準拠点(reference point)になっているということ。「炎上」や「祭り」といった現象は、しばしば「孤独な若者たちが繋がりを求めているからだ」と心理主義的に理解されがちではあるのですが(それもまた真実なのでしょうが)、こうした機能主義的な理解を行うことも可能でしょう。
[*2] レッシグは『CODE』(翔泳社、2001年)の中で、「サイバースペースは《本質的に》自由である」と考えるサイバーリバタリアン(自由至上主義者)たちに対し、次のように警鐘を鳴らすことから議論を始めています:サイバースペースが《本質的に》自由であるということはない。本質的なものに見えるその自由な性質とは、インターネットというアーキテクチャのCODE(コード)によって担保されたものである。しかしそのCODE(コード)は、企業や国家(法)によって、本質的にはいくらでも都合のいいように書き換え可能である、と。
濱野智史の「情報環境研究ノート」
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