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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第5回「疑似同期型アーキテクチャ」と「真性同期型アーキテクチャ」

2007年6月21日

さて今回は、第2回第3回と論じてきた、Twitterとニコニコ動画の共通点に関する話題に戻りましょう。そこでまず、簡単に流れを振り返っておきます。

かたや米国発のWeb 2.0系コミュニケーション・サービスとして注目された「Twitter」と、日本発の2ちゃんねる文化の延長に生まれた動画サービス「ニコニコ動画」。この二つのサービスは、単に地理的に離れているというだけではなく、文化的にも(ネット文化上のポジションとしても)大きく隔たっています。例えば、これは確たる論拠ある主張ではありませんが、いわゆる「ブロガー」や「mixiユーザー」と呼ばれるようなネットユーザーのクラスターと、「2ちゃんねらー(特にその中でもVIPPER)」と呼ばれるようなクラスターは、あまり重複していないという直感的な印象を受けます。事実、両クラスター間では、この数年、しばしば軋轢や衝突が生じていたことは周知のとおりです。例えば、事あるごとにブログのコメント欄で発生する「炎上(コメントスクラム)」(例えばised@glocomでの加野瀬未友(倫理研第4回)氏や小倉秀夫(倫理研第7回)氏の回で詳細に論じられています)や、昨年mixi上で起こった、三洋電機社員の個人情報漏洩事件に端を発するmixiに対する一連の攻撃(「mixiモータードライヴ事件」まとめサイト)等を、その一例として挙げることができます。そしてこの両者の差異は、前者がユーザー登録が必要で「顕名的」(固定アカウント有り)のサービスであるのに対し、後者が登録不要で「匿名的」なサービスとして運営されてきた、という仕組み上の違いから一般的には理解されてきました。

ここにさらに事例を付け加えるならば、ニコニコ動画の監修者でもあり、2ちゃんねるの管理人でもある西村博之氏は、最近発表された「ニコニコ宣言」という文書において、「web2.0の本質は地球規模のwebを媒体とした集合知をつくりあげることであるといわれてますが、われわれはその集合知に人格や感情を備えさせることを目指したい」と述べ、自らの運営するサービスが、いわゆる「Web 2.0」と呼ばれるものとは一線を画したポジションであることを表明しています(そのポジションは、直近のインタビュー記事(ITMedia)の中でも、「Web2.0という言葉は大嫌いなんです」とより明確に表現されています)。

しかし、筆者の考えでは、Twitterとニコニコ動画の間には――どれだけこの両者の文化的な背景が異なっているとしても――アーキテクチャ上の明確な共通点を見出すことができます。その共通点とは、《客観的》な時間の流れから見れば、利用者の間のコミュニケーションは「非同期的」に行われているけれども、各ユーザーの《主観的》な時間の流れにおいて、あたかも「同期的」なコミュニケーションがなされているかのような錯覚を与える、というものでした。この特徴を、以後圧縮して「擬似同期性」と呼びましょう。

#ここで少し寄り道をしておくと、つい先日、有料サービスの開始とともに提供された「ニコニコ動画(RC)」の「マイメモリー」という新機能は、ここで論じた「疑似同期性」の成立を崩してしまうかもしれないという点で、興味深いものです。この機能は、「ある動画に対して、その時に表示されているコメントの状態を記録しておき、いつでもそのコメントを再生できるもの。不要なコメントを非表示にするなどの編集機能も備える」というものです(Internet Watch)。こうしたコメントの保存・編集機能が提供された背景には、次のようなコメントに関する仕様上の不満が存在していました。それは、ニコニコ動画では、いわゆるアスキーアートにも近い芸術的/職人芸的な弾幕コメントの数々(紹介例として敷居の先住民 - ニコニコの儚い芸術 ~コメントアートの世界~」)が、ひとつの動画内における最大コメント表示数に限りがあるという制約から、新規コメントによって押しやられてしまう(消えてしまう)、というものです。しかし、今回ニコニコ動画が、こうした利用者の不満をケアし、各ユーザーがオリジナルのコメント状態を保存できるようアーキテクチャを改変したことで、《誰もが同じ動画を見ることで、あたかも同じ「現在」にいるかのような感覚を得る》というニコニコ動画の環境条件を、なし崩し的に壊してしまう――擬似的に共有されていた「現在」を、再びばらばらに分散させてしまう――ことにも繋がりかねないという点で、興味深いということができます。

こうした「擬似同期性」を実現するCMC(Computer Mediated Communication)のアーキテクチャの登場は、インターネットが学術ネットワークの範疇を越えて、一般大衆レベルで利用されるようになった(通常、それは「Windows 95」の発売された1995年あたりをメルクマールにすることが多いのですが)およそ十数年のインターネットの歴史から見ても、実に興味深い現象ということができます。というのも、インターネットが注目された当初、電子メールや掲示板(ネットニュース)等の特徴ないしはメリットは、その非同期性にあるとされていたからです。いまとなっては、ほとんど指摘されることも意識されることもなくなりましたが、当初電子メールは、電話等の「真性同期」的な遠隔コミュニケーション手段に比べて、自分の「都合」にあわせて返信できるという点、そして電話をかけてしまうことで相手の「都合」を侵害しないという点がウリにされていました。特に後者の点は、電話をかけるという行為が、相手の状況に突如として闖入してしまう、きわめてハタ迷惑な行為であるとも感受されていたことを意味します。(その逆に、電話先の相手の懐に突如として介入してしまう電話の特性は、これも最近ついぞ聞かなくなった「長電話」のように、むしろ対面しているときよりも親密な距離にあるかのような感覚を与えている――前回論じた「水曜どうでしょう」というバラエティ番組の特性も、ある種この「声」が与える≪近距離効果≫に拠るものでしたが――、としばしばメディア論では指摘されてきました)。

これに対し、Twiiterやニコニコ動画というCMCのアーキテクチャが優れているのは、各ユーザーが発話する行為(書き込むこと)は非同期的になされるという点において、従来論じられてきたCMC型コミュニケーションのメリットをそのまま保持しながらも、各ユーザーから書き込まれた発話行為をあたかも同期的になされたコミュニケーションとして体験できる、という点にあります。これは第二回でも述べたように、チャットやIM(インスタント・メッセンジャー)といった「真性同期型」のCMC手段においては、実際にコミュニケーションを交わす者同士が同じ「現在」を共有する必要があるという点で強制的(拘束的)です。ここで主題としている「疑似同期的」なコミュニケーション・アーキテクチャの特性は、その拘束条件を免除する点にあるといえます。

拘束条件をコストという言葉に置き換えて、もう少し詳しく見てみましょう。先ほども指摘したとおり、電話・チャット・IM等の「真性同期型」コミュニケーションは、その相手の「現在」に突如として参入してしまうというその特性から、接続を開始する際の心理的コストが高くなります(接続ができないかもしれない、という期待外れの結果になることをあらかじめ想定しておかねばなりません)。また、いざ同期的なコミュニケーションを開始してしまうと、コミュニケーションの「切断」は気まずさをもたらすためにできる限り回避されなければならず、「相槌」のような形式的なコミュニケーションを矢継ぎ早に展開する必要があります(これは裏を返せば、さほど会話に集中していなくても、適当に相槌さえ打っていればなんとなくコミュニケーションが成立してしまう、ということでもあります。その観点からいえば、オフィシャルなメール・文書等のある程度配慮の必要となる文章を書く必要のある非同期型コミュニケーションの場合に比べて、真性同期型コミュニケーションの「運用コスト」は低いと捉えることも可能でしょう)。また、同期的コミュニケーションが成立している間、基本的に他の人とコミュニケーションをする機会は奪われる(そしてその機会を相手から奪ってしまう)という意味で、いうなれば「機会コスト」も高くつくことになります。これらの「真性同期型」コミュニケーションにおいて発生するコストを、「擬似同期型」のそれは削減することができるというメリットを持っています。

それでは、こうしたコストを削減してまで、なぜ「同期性」が求められるのでしょうか? (以下、次回に続く)

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。