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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第8回「多義性」を縮減するのに適切なメディアとは何か

2007年7月19日

(濱野智史の「情報環境研究ノート」」第7回より続く)

前回の「機能主義的分析」 [*1]をさらに補強するために、主に経営学(組織論)の世界で古典的な学説として知られている、「メディア・リッチネス理論」を参照してみたいと思います(Daft, R.L. + Lengel, R. H. (1986) "Organizational Information Requirements, Media Richness and Structural Design," Management Science Vol. 32, No. 5.)。この理論は、組織が対処すべき問題を「不確実性(uncertainty)」と「多義性(equivocality)」という2つのタイプに区別した上で、その問題のタイプによって「会議」や「メール」等のメディアを使い分けるべきだ、と主張するものです。

まず、この2つの問題から解説しましょう。「メディア・リッチネス理論」がまず前提としているのは、システム論・組織論者H.A.サイモン以来の伝統、すなわち組織を「情報処理システム」として捉えるモデルです。サイモンによれば、組織とは、環境の「不確実性(uncertainty)」に対処するために、組織の内外の情報を効率的に収集・蓄積・整理し、(個々人レベルでは成しえない)高度な合理的判断と意思決定を行うための「情報処理システム」として把握されます。そして経済学者のガルブレイスは、このサイモンのモデルを踏まえて、「不確実性」という概念を、組織がタスクを実行するのに必要な情報量と、すでに組織によって獲得されている情報量の落差であると定式化しました。この《落差》というのは、何をすべきかという課題を決定する「経営」(意思決定者)と、実際に課題の処理を遂行する「現場」の間で、必要とされる情報のやり取り(のロス)が増えてしまうということを意味しています。「メディア・リッチネス理論」では、基本的にこのサイモン─ガルブレイスの定義をそのまま採用しています。

これに対し、「メディア・リッチネス理論」は、「不確実性」だけが組織の処理すべき問題ではないと考えます。それが「多義性(equivocality)」です。equivocalとは「曖昧な」という程度の意味ですが、これは文字通り、課題の所在が曖昧な状態、すなわち「いま何が立ち向かうべき課題なのか」について、組織内で多様な解釈が並立/衝突してしまう状態を指しています。なぜ「メディア・リッチネス理論」がこうした「多義性」概念を新たに立てる必要があったのかといえば、それはガルブレイスの「不確実性」概念における、「課題自体は経営層によって明確に把握されている」という前提自体をカッコに入れることにあったということができます。ガルブレイスのいう「不確実性」とは、あくまで《課題が明確に把握された上で、その解答を導き出すための情報が不足している状態》に他ならず、組織設計のキモは組織内の情報の効率的な引き出しに集約されることになる。しかし、そんなはずはないだろう、という異議申し立てが「メディア・リッチネス理論」による「多義性」概念提出の意図になっています。

以上を比喩的に表現すれば(組織の例ではないので、あくまで比喩に留まりますが)、「不確実性」とは、何か調べたいことがらが存在し、検索エンジンで一覧表示された検索結果を、ひたすら閲覧して答えを探している状態に相当し、一方の「多義性」とは、そもそもどのようなキーワードで検索にかければいいのかどうかも分からない状態に相当しているということができるでしょう。

そしてメディア・リッチネス理論は、前者の「不確実性」と後者の「多義性」では、それぞれの問題を縮減するのに適しているメディアが異なると指摘します。その考えを図示すれば、以下のようになります:

(リッチネスが高いメディア = 「多義性」の縮減に有効)


 ↑ F2F(Face to Face):ミーティング[*2] 
 | 電話
 | 宛先の特定されたドキュメント(メール等)
 ↓ 宛先の特定されていないドキュメント
   (定期的報告、定量的なデータやレポート、社内報)

(リッチネスが低いメディア = 「不確実性」の縮減に有効)

さて、ここでいわれているメディアの「リッチネス(豊かさ)」という概念は、「一定の時間内に認識を変えるための情報の能力」を意味しています。「メディア・リッチネス理論」では、その計測基準として、主にコミュニケーションのフィードバックの即時性や、身振りや声のトーンといった情報伝達の手がかりの多様性といった点が挙げられています。つまり前回までの言葉を使えば、メディアの「リッチネス」とは、コミュニケーションの「文脈情報の多さ」と考えて差し支えありません。上の図式を一言で要約すれば、組織が立ち向かうべき問題の所在が明らかな場合(=「不確実性」)には、余計な文脈情報のそぎ落とされたデータ的情報が適しており、その一方で、そもそものアジェンダ・セッティングが不透明な状況(=「多義性」)では、文脈情報の豊かなコミュニケーション手段を通じて、問題の所在を探っていくのが適している、というわけです。

それでは、なぜ文脈情報=リッチネスが高いほうが、コミュニケーションの「多義性」を縮減するのに適しているのでしょうか。それはこういうことです。いわゆる組織の例ではありませんが、ある男性が女性をこれから口説こうとしている場面があったとしましょう。ただし、女性の側は、どうも微妙な反応を返すばかりで、男性の申し出を受け入れるかどうか留保した状態、つまり「多義的」(曖昧)な状態にあるとします。このとき、何気ない相手の仕草やノリの良さ/悪さといった文脈情報は、口説き的行為の成否を予期/判断する手助けとなります。つまり、男性の側は、文脈情報を多く共有することで、はっきりと「OK」という言葉が発話される前に、「結局のところOKなのかどうか」に関する《妥当性》を判断することができるわけです。一方女性の側も、はっきりと「NO」といわなくとも、身振りや態度といった文脈情報を通じて、暗に男性の行為が《妥当でないこと》を示すことができます。このように、文脈情報の豊かさは「妥当性」の引き出しをファシリテートする性質を持ち、ひいてはコミュニケーションの「多義性」を縮減するのに役立ちます。

しかし、こうした文脈情報を介したコミュニケーションは、「空気の読めない相手」に対しては通用せず、むしろ勘違いの元になることもしばしばです。文脈情報の多さは、かえって文脈情報の操作に失敗するリスクの増大に繋がってしまうからです(例えば「その気はないのに、相手から見ると『思わせぶり』な態度を取ってしまった」等)。何はともあれ相手を口説きたい/あるいはその申し出を断りたいという課題が明確に設定されているのであれば、メール等の手段でその想いを伝えるほうが手っ取り早い。これが「不確実性」の縮減に相当します。

ここで、次のような点に留意しておく必要があるでしょう。常識的な発想に従えば、<曖昧な>コミュニケーションの状態は、どちらかがはっきりと主張を明言すれば解決できる、と考えられています(例えば、二人の男女が付き合うのかどうかが不明確な状態は、どちらかがはっきり告白すれば結論が出る、というように)。逆に面と向かった会話等では、コミュニケーションはかえって<曖昧な>方向へ向かいがちで、「多義性」は縮減されるどころか増大してしまう、と考えるほうが一般的な感覚からすればしっくりくるかもしれません。しかし、「メディア・リッチネス理論」の考えによれば、こうした発想は「曖昧さ」の意味を取り違えているということになります(ここでは、常識的な方を<曖昧さ>と、「メディア・リッチネス理論」の「多義性」とイコールな方を《曖昧さ》と表記することにします)。

それはこういうことです。常識的な発想によれば、コミュニケーションの<曖昧さ>とは、その「主題」が隠れていて見えない状態を指しており、その主題をはっきりと明示すれば<曖昧な>状況は取り払われる、と考えます。これは第6回の言葉を使えば、コミュニケーションの「小包(packet)モデル」──送信者と受信者の間でなんらかの「内容(メッセージ)」がやり取りされるモデル──に依拠した考え方です。つまり、いわゆる一般的な意味での<曖昧な>コミュニケーションの状態というのは、少なくとも送信者の側がその主題=メッセージをあらかじめ措定している状態において、受信側がその適切な解釈を行ってくれない状態を意味しているわけです。こうした意味での<曖昧さ>は、「メディア・リッチネス理論」の考える「多義性」(《曖昧さ》)とは異なり、むしろ「不確実性」(経営層は明確に課題を捉えているが、現場層でその解釈を適切に行ってくれない状態)に近いといえます。そして「メディア・リッチネス理論」の考える《曖昧さ》とは、コミュニケーションの場において、こうした隠された主題自体があらかじめ措定されていない状態、あるいは複数の参加者からそれぞれ異なる主題が持ち出されてしまっている状態を指しています。この状態においては、どちらかがはっきりと主張を明言しても、決して《曖昧さ》は解決することはなく、その解決のためには、一見すると<曖昧>にしか見えないようなコミュニケーション状況の下で、妥当なるアジェンダを手繰り寄せていくしかないのです。

さて、「メディア・リッチネス理論」の解説が思いのほか長くなってしまったので、続きはまた次回とします(なかなか結論に行かずにすみません)。次回の議論は、上の「F2F>電話>メール>不特定文書」という図式をロードするところから再開したいと思います。すでにお気づきの方も多いと思いますが、リッチネスの高い/低いという区別は、これまで用いてきた「同期/非同期」という図式と重なっています。この点に着目しながら、議論を「擬似同期型アーキテクチャ」の分析に差し戻していく予定です。

* * * * *

[*1] 北田氏は「機能主義」という言葉を社会システム理論のN.ルーマンを参照しながら用いていましたが(「複雑性を縮減するメカニズム」として捉える)、今回触れた「メディア・リッチネス理論」は、H.A.サイモン以来の組織論の伝統に則り、企業組織を「情報処理システム」として捉える立場に立っています。サイモンの基本的な発想は、組織を含むあらゆる人工物(Artifact)を、人間の「認知限界」を克服するための情報処理機構とみなすというものですが、これは基本的に(前期)ルーマンの「複雑性の縮減」という概念とパラレルです。というのもサイモン・ルーマン両者とも、システム論の始祖の一人、アシュビー(Wikipedia英語版)の議論から出発したからなのですが、その後、(後期)ルーマンは、「生命(特に神経・免疫系)」に関するシステム論、マトゥラーナ+ヴァレラの「オートポイエーシス」理論に依拠するようになります。こうしたサイモンと(後期)ルーマンの関係は、河本英男氏の分類を借りれば「第一世代」(サイバネティクスや階層構造システム論)と「第三世代」(オートポイエティック・システム)に相当しています。ここではその世代の違いについては深く立ち入ることはしませんが、本論では、こうしたシステム論の系譜を踏まえた上で「機能主義」という言葉を参照しています。

[*2] 最近の組織論のトレンドは、「不確実性」や「多義性」といった概念よりも、組織内の「多様性」を活かすことで(≒ダイバーシティ・マネジメント)、いかに「創造性」を生み出していくか(ダニエル・ピンクやリチャード・フロリダ等の論者が典型的)といったテーマのほうに着目が集まっているようです。しかし、「会議は多義性を縮減するのに向いている」という「メディア・リッチネス理論」の知見は、ベタなビジネス論の文脈でもまだまだ重要なインプリケーションをもたらしてくれるように思います。例えばビジネス論の世界では、現代においても、「(特に大企業では)だらだらと無駄に行われる会議が多すぎる」といった認識が幅広く共感を集めているようです。無駄な会議をなくし、サクサクと会議を行うためのノウハウは数多く語られていますし、そのノウハウをITシステムによってサポートする、いわば「会議ハック」のためのツールも世に出されています(例えば、サルガッソー社の「Sargasso eXtreme Meeting」がその一例です。参考:サルガッソー代表の鈴木健氏によるコラム→ITmedia Biz.ID:第1回 会議の何が問題なのか?。このツールの特徴は、会議という同期的なメディアにおいて、議事録という非同期メディアをその場で作成するという点にあります)。さて、こうした会議ハックのポイントは、しばしば「あらかじめ会議の目的を明確に定めておくこと」にあるとされます(そしてアジェンダの不明瞭な会議は、無駄にだらだらするので行うべきではない、とされます)。しかし、「メディア・リッチネス理論」が注意を促しているのは、そもそも組織が向かうべき「目的」自体が不明瞭な状況においてこそ、会議のようなメディアが有効に働く、ということです。そのため、上のような「会議ハック」をあまりに徹底してしまうと、本来会議というメディアが持っていた「多義性を縮減する機能」が抜け落ちてしまう可能性もあるということです。

参考:

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。