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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第7回「擬似同期型アーキテクチャ」の機能主義的分析

2007年7月12日

(濱野智史の「情報環境研究ノート」第6回より続く)

前回、「繋がりの社会性」という情報環境研究のキーワードを手がかりに、擬似同期型アーキテクチャについての考察を進めました。そして最後に、「若者は情報技術をインストゥルメンタル(道具利用的)にではなく、コンサマトリー(自己充足的に)使う傾向にある」という、いわゆる若者論的な図式で擬似同期型アーキテクチャの出現を理解すべきではないと論じました。

■CMC上で「繋がりの社会性」が前面化するのはなぜか(7-1)

では、どのような視点で考察を続けていくべきでしょうか。前回に引き続き、ised@glocomでの北田暁大氏の議論を参照してみましょう(ised@glocom倫理研第3回:「ディスクルス(倫理)の構造転換」)。北田氏によれば、掲示板やブログといった一般的なCMC空間上で、「繋がりの社会性」が前面化してしまう──CMC上でコミュニケーションの「内容」についての討議や合意形成が困難となってしまう──のは、CMCがある種の「構造的要因」を抱えているからです。そして北田氏はその要因として次の二つを挙げています。

1)文脈共有の困難:FTF(Face to Face)のコミュニケーション状況においては、話者同士が「互いに文脈を共有していること」を前提にして、何が妥当なコミュニケーションなのか・そうでないかをあらかじめ区別できるのに対し、CMC上では、「なにがいま我々の行為における文脈であるのか、その見解を異にする人々が無媒介に接してしまう」可能性が高くなります。これはいいかえれば、CMC上では《場の空気を読む》ことが難しくなってしまうということです。北田氏の見立てによれば、ブログ上で相次いで起こる「炎上」は、「主義主張の違い」という内容次元でのコンフリクト(衝突)から生じるというよりも、むしろ多様な文脈の交錯によって引き起こされているとみなされます。また、コミュニケーションの文脈が共有されにくいという特徴は、その特性を逆に利用して、《容易に異なる場の空気を持ち込むことができる》ということでもあります。ised@glocomの別の回(倫理研第4回:共同討議第2部「日本社会と2ちゃんねる──「ネタ化」という文化的作法」)では、「あらゆる議論をネタとして消費し、スルーし、脱臼してしまう」という、2ちゃんねる的な「ネタ化」の作法について議論されましたが、これはまさに、CMCの「文脈共有の困難さ」を逆手に取った言説戦略である、ということができるでしょう。

2)過剰な「反射能力=責任(responsibility)」の要請:ブログや掲示板等、一般的なCMCのアーキテクチャでは、コミュニケーションの範囲が《空間的に》確定されないという特徴を持ちますが、それゆえに発話者の意図を問いただす解釈行為(「つまりそれはどういう意味なのか?」)が、《時間的に》無限に積み重ねることが可能になってしまうということです。その問題として北田氏が例に挙げているのは、CMC上の「沈黙の持つ意味」の過剰さについてです。講演の言葉を引用すれば、

「なぜ昨日の飲み会に来なかったんだ?」というメールに、1日レスをしなければ、それでもう「意味」が発生してしまう。ある種の動物的な反射能力(response-ability)が、CMCにおいては重要な意味を持つともいえます。すぐにレスを返せば責任に応えており、レスを返さなければ無責任か、否定的なレスを返したということになってしまう。」

というものです。上の事例はWWWのものではありませんが、同様の傾向は掲示板やブログのコメント欄等にも見られます。おそらくこうした「動物的な反射能力」に急き立てられる経験というのは、今日インターネットを利用する多くの方が経験されたことのあるものではないでしょうか。これはよく指摘されることですが、ネットの出現によって、誰もが簡単に繋がることができるようになった結果、「繋がらないこと」の意図が絶えず忖度されてしまうようになった、ということでもあります。

以上の北田氏の議論を要約すれば、(WWWを中心とする一般的な)CMC空間では、「オープンな場」であるというその特性ゆえに、1)コミュニケーションの当事者間で文脈(コンテクスト)が共有されにくく、2)意図解釈のターンが時間的に無限に引き延ばされうるという二点によって、内容次元ではなく事実次元に焦点の置かれた「繋がりの社会性」的コミュニケーションが前面化してしまう、ということになります。

■「機能主義」の見方を採用する(7-2)

さて北田氏は、こうした一連の分析の視角を「機能主義的」と呼んでいますが、筆者の目論みは、まさにこの「機能主義」の視点の延長線上で、「擬似同期型アーキテクチャ」を捉えることにありました。本論での考察を通じて明らかにしてきたように、例えばTwitterであれば、擬似同期的なコミュニケーションの連鎖に「参加するかどうか」は基本的に各自の「自己選択」に委ねられることで、Twitterのユーザーは、真性同期型のチャットやIM等で生じてしまう「即レスに対する責任」から免除されます。またニコニコ動画であれば、コミュニケーションの範囲を「動画再生中」という枠内に制限することで、CMCの「オープンな場」という特性を抑制しているといえます。特にニコニコ動画のケースが興味深いのは、通常CMCのオープン性を制限するためには、mixiに代表されるように、ユーザー認証によってアクセス可能な範囲を囲い込むという「空間的」手法が採られるのに対し、ニコニコ動画では「時間的」な制約手法を採用しているという点にあるといえるでしょう(現在ニコニコ動画は会員限定のクローズド・サービスでもあるので、実際には「空間的」な制約もかかっているのですが)。

一言で言えば、Twiiterやニコニコ動画といった「擬似同期型アーキテクチャ」は、前世代までのCMC上の問題をアーキテクチャ的に解決する役割を果たすものとして出現したのではないか。──以上がised@glocomでの議論を受けた、「擬似同期型アーキテクチャ」についての筆者の仮説になります。次回はこうした「機能主義的」な考察を補強するために、経営学(組織論)の古典的な学説、「メディア・リッチネス理論」を参照してみたいと思います。

#「擬似同期型アーキテクチャは、CMC上が構造的に宿している問題を解決した」という主張は、いささか違和感を持って受け止められた方も多いかもしれません。一見したところ、Twitterもニコニコ動画も、極めて短いコメントを連鎖させていく「動物的なレスポンス」に満ちた空間であり、「ザ・繋がりの社会性」というほかないという印象を受けます。それに、そもそも筆者自身が前回、Twitterやニコニコ動画を「繋がりの社会性」の延長にあるアーキテクチャであると指摘したばかりです。つまりこれは、擬似同期型アーキテクチャの効能は、あくまで「繋がりの社会性」における《ミクロな》レベルでの問題を解決したに留まっており、CMC上での「内容ベースの言説空間(公共圏)」の回復を実現しているわけではないということ、いいかえれば、「繋がりの社会性」自体の問題を乗り越えるような、《マクロな》レベルでの解決を実現したわけではない、ということです。

となると、ここから先の議論は次のような分岐に分かれていくことが想定されます。1)「繋がりの社会性」の圏内でミクロな話を続けても詮無いのであって、CMC上で内容ベースの討議的コミュニケーションを実現するにはどうすればよいかを考えるべきではないか。2)そもそも公共性の意味論自体が歴史的に(政治体制・制度・技術等のサブシステムの変動に応じて)変容するのであって、「CMC上で内容ベースの討議空間をつくる」という以外の情報環境デザインのアプローチがありうるのではないか。たとえば上で引用したised@glocom倫理研第3回では、2)後者のルートへと議論が展開しました(→共同討議 第2部:公共圏の確立から「私的領域の確保」へむけて)。そしてその後倫理研第7回では、再度1)前者の問題に改めてガチに取り組むのですが、CMCの構造的要因よりもさらにマクロな問題、すなわち「そもそも日本社会では内容ベースの議論が成立しがたい」という文化的特殊性の問題に突き当たることになります。これらの論点については、今後また改めて論じることにしたいと思います。

(次回に続く)

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。