このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第6回 情報環境研究のキーワード「繋がりの社会性」

2007年7月 5日

(濱野智史の「情報環境研究ノート」第5回より続く)

これまで数回に渡って、Twitterとニコニコ動画を事例に挙げながら、「擬似同期型アーキテクチャ」についての考察を行ってきました。残す論点は、インターネットはもともと「非同期性」をウリにするコミュニケーション手段であったにも関わらず、なぜここにきて「同期的」なコミュニケーションを実現するアーキテクチャが出現し、多くのユーザーを獲得しているのか、というものでした。今回はこの論点について、「繋がりの社会性」という情報環境研究のキーワードを参照しながら考えてみたいと思います。

■6-1:情報環境研究のキーワード「繋がりの社会性」

「繋がりの社会性」とは、社会学者北田暁大氏によって提出された概念で、本連載でも大きく依拠している、ised@glocomで議論された主概念の一つです(ised@glocom キーワード)。ちなみに、『広告都市・東京』(広済堂出版、2002年)では「つながりの社会性」、『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版、2005年)では「《繋がり》の社会性」と表記されていますが、ここでは「繋がりの社会性」で統一することにします。この概念の内容は、次のようなものです。

一般的に、コミュニケーションというものは、送信者と受信者の間でなんらかの「内容(メッセージ)」がやり取りされるモデルで考えられています(これを郵便物が配送されるのに例えて「小包(packet)モデル」とも呼びます)。しかし、90年代後半以降に現れた若者のデジタル・コミュニケーションのスタイル――たとえば一日に何十通と交わされる「毛繕い的な(グルーミング的な)」ケータイメールのやり取りや、匿名掲示板2ちゃんねるで展開される「祭り」現象等――においては、もはや「交わされるメッセージについて合意できるかどうか」という《内容》の次元ではなく、「いかなる内容にせよ、コミュニケーションの繋がりが成立している」という《事実》の次元に焦点が置かれています。ケータイメールにせよ、2ちゃんねるへの書き込みにせよ、そこでは一つ一つのコミュニケーションの内容自体はもはや重要ではなく(あるいは盛り上がるための「きっかけ」に過ぎず)、コミュニケーションをしているという事実それ自体が自己目的化している、というわけです。

この「繋がりの社会性」という概念は、ケータイメールや2ちゃんねる以外にも、きわめて広範にその事例を発見することができます。例えば先述したised@glocomでは、mixiをはじめとするSNSも、こうした「繋がりの社会性」というコミュニケーション様式に適合するかたちで普及するに至ったと議論されています(ised@glocom設計研第3回)。特にmixiの「足あと」機能は、いつ誰が日記にアクセスしたのかという《事実》にフォーカスした機能であり、まさに「繋がりの社会性」をアーキテクチャ的に可視化したものということができます。また、少し前に池田信夫氏が取り上げて話題になった「ネットイナゴ」問題においても、同様の認識が見られます。発端となった産経の記事では、祭りや炎上を引き起こすネットユーザーたちを、いわゆる「ネット右翼」(嫌韓)というよりも、「ネットイナゴ」と呼ぶほうが適していると論じています。「イナゴには悪意も善意もない。あるのはただ食欲のみだ」(iza)というその文言は、換言すれば、右か左かといった政治的なイデオロギーの《内容》には関心がなく、祭りや炎上に参加しているという《事実》だけが求められているというわけです。

こうした「ネット上で盛り上がる言説は、内容次元での討論として議論が盛り上がっているのではなく、実際にはお祭り感覚や野次馬感覚に支えられている」という認識は、すでに数多くの論者によって指摘されてきたため、特に目新しいものではありません。社会学者吉田純氏の『インターネット空間の社会学』(世界思想社、2000年)によれば、古くはパソコン通信の時代から、草の根BBSに政治理念的な意味づけを見出すエヴァンジェリスト的言説と、BBSの「現場」でコミュニケーションを娯楽的に楽しむユーザーとの間の温度差が指摘されています。しかし、とりわけネット上の動向には疎いとされてきた――それゆえにしばしば新聞記事はネットユーザーたちの格好にネタにされてきた――日本の大衆紙レベルで同種の認識が示されるということは、逆に言えば、「繋がりの社会性」的な認識が、そのタームが使われるかどうかに関わらず、(少なくとも日本では)かなり一般化したことを示しているということができるでしょう。

そして、Twitterとニコニコ動画というアーキテクチャの特性もまた、以上に述べたことの延長線上で理解することができます。「擬似同期性」を特徴とする両アーキテクチャには、実際には非同期的に行われている各ユーザーの発話行為(コメント)を、同期的なコミュニケーションとして体験させる(錯覚させる)という設計が施されています。その設計の主眼は、コミュニケーションの《内容》レベルではなく、コミュニケーションが成立している――同じコミュニケーションの「現在」あるいは「場」を共有している――という《事実》を強固なものにすることに置かれていることは明らかです。

■6-2:「インストゥルメンタル/コンサマトリー」という二項図式

擬似同期型アーキテクチャの登場の背後には、「繋がりの社会性」というモーメントが働いている。これをもって、ひとまずの暫定的な認識としておきましょう。では、ここから何をインプリケーション(含意)として引き出すべきでしょうか。これまで「繋がりの社会性」(に類した認識)に関する議論は、おおまかに分けて次の3つに分類できます:1)若者論:現代情報社会の若者は「繋がりの社会性」に耽溺しているのでケシカラン的なもの。2)日本論:日本社会では、内容レベルでの合意形成を目指した討議型のコミュニケーションが成立せず、「場の空気」等に支配された、グズグズの「繋がりの社会性」型コミュニケーションしか成立しない云々(参考:ised@glocom倫理研第7回:共同討議第2部)。3)電子民主主義論:「繋がりの社会性」の増幅はインターネット(WWW)の現状では原理的に避けられない以上、ウェブ上での議論を通じた合意形成――たとえばブログ等の「市民生成メディア」(日本では「CGM」といえばConsumer-Generated Mediaのことですが、英語圏ではCitizen-Generated Mediaのことを指す場合もあります)を通じた「草の根のジャーナリズム」――はついぞ実現しえない夢に終わる云々(参考:ised@glocom倫理研第3回:北田暁大基調講演「ディスクルス倫理の構造転換」)、といったパターンに分かれます。特に2)日本論と3)電子民主主義論は重ねて議論されることが多いのですが、ここではスペースも限られるので、1)の若者論だけを簡単に確認してみたいと思います。

とはいえ、「繋がりの社会性」が若者論へと至る回路は極めて単純なものです。この数年に出版されたこのテーマに関する書籍では、例えば『若者はなぜ「繋がり」たがるのか』(武田徹、PHP研究所、2002年)『「つながり」という危ない快楽』(速水由紀子、筑摩書房、2006年)等、「繋がり」という言葉自体が2000年代の若者論的のキータームの一つとして扱われてきました。こうした類の議論は、簡単にケータイ批判・2ちゃんねる批判等、新しいメディア技術とその中心的な利用者である若者をいっしょくたに批判的に理解する方向へと短絡していきがちです(例えば「ゲーム脳」的なもの)。

その逆に、同じ「繋がり」という単語は、異なる文脈に置かれることで、途端に肯定的な意味合いを帯びて使われます。例えばビジネスや地域活性化の文脈では、同じ「繋がり(ネットワーク)」という言葉は、「人脈」や「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」の重要性を論じるための鍵概念となっています(例は事欠きませんが、『人脈づくりの科学』(安田雪、日本経済新聞社、2004年)や『人と人の「つながり」に投資する企業』(Cohen+Purusak, ダイヤモンド社、2003年)等)。またそもそも2003年頃、当初「SNS」という新しいサービスの存在は、米国でのビジネスパーソンのための「人脈づくり(ネットワーキング)」に資するものとして注目を浴びていました。

それでは、どうして同じ「繋がり」という概念が、若者論ではネガティブに、ビジネス論ではポジティブに扱われるのか。いうまでもありませんが、その構図の裏側には、結局のところ、コミュニケーション技術の「インストゥルメンタル(instrumental: 道具的)な利用/コンサマトリー(consummatory: 自己充足的)な利用」という二項図式の存在があります。つまりコミュニケーション技術は、しかるべきスキルと知識を持った「大人的」なユーザーが、目的を達成するための「道具(手段)」として使いこなすべきである。しかし「若者」たちは、さしたる目的も持たぬまま、そこでのコミュニケーション自体を「自己目的化」してしまう、というわけです。

しかし、この図式はいささか問題的ではないか――誤解のないように強調しておけば、「若者(批判)論」という行為自体が問題だと指摘したいのではなく、その「分析の精度」という点から見て――と考えます。なぜなら上のような図式では、「目的を持っているかどうか(利用目的を自覚しているかどうか)」という曖昧な点によって、「インストゥルメンタルか(大人的か)/コンサマトリーか(若者的か)」という線引きが恣意的に行われてしまうからです。ただし、ここで筆者が考えているのは、社会学的に若者論言説の社会構築的性格を明らかにしたいということ(恣意的な線引きの裏側に潜む社会的権力の所在を浮き彫りにすること)でもありません。本論では、そもそも情報環境を論じる際、その利用目的を云々すること自体が原理的に意味をなさないと考えます。これはかなり極論に聞こえるかと思いますが、第一回で確認したように、アーキテクチャ(情報環境)の公準的な特徴は、そのユーザーに自覚的な利用というものをそもそも意識させない点にあると指摘しました。この公準に従えば、情報環境の利用者における「利用目的」の有無を軸に分析を行うことは、原理的には意味をなさない。私たちはこれとは別の視角を採用する必要があると思われます。

(次回に続く)

フィードを登録する

前の記事

次の記事

濱野智史の「情報環境研究ノート」

プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。