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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第3回「Twitter」と「ニコニコ動画」の共通点(2):ニコニコ動画編

2007年6月 7日

前回(Twitter)からの続きです。今回はニコニコ動画について見ていきます。前回の最後で、ニコニコ動画の設計コンセプトは「非同期実況」だと紹介しました(前回のエントリの投稿後、今月頭に発表された「ニコニコ宣言」というマニフェストでは、「非同期チャット」とも表現されています)。それはどういうことでしょうか。例によって、すでにご存知の方も多いと思われるのですが、以下で具体的に記述していきたいと思います。

■「動画視聴体験共有サービス」としてのニコニコ動画(2-1)

さて、ニコニコ動画というサービスを一言で説明する際には、「動画の再生画面上にユーザーがコメント(テロップ)を付けることができるサービス」と最大公約数的に表現されることが多いようです。ここでいう「動画にコメントを付ける」という行為は、おおよそ次のような流れに沿って行われます:まず、ニコニコ動画のユーザーは、動画を再生している最中に、自分がコメントを表示させたいと思うタイミングでコメントを投稿します。例えば、あるユーザーが動画再生時間“1:22”のタイミングでコメントを投稿したとしましょう。その後、別のユーザーが同じ動画を再生すると、このコメントは“1:22”のタイミングで、動画の再生画面上に、右から左へ流れるように再生画面上に表示されます。

この一連のプロセスを比喩的に表現するならば、映画のフィルムの上に直接文字を書き込んでしまうことで、その文字を直接スクリーン上に映し出してしまうようなもの、ということができるでしょう。フィルムに直接文字を書き込んでしまえば、誰がそのフィルムを再生しても、必ず同じタイミングでその文字が映し出されることになるからです(ただし、単にフィルム上の一箇所に文字を書き込んでも、実際には一瞬で表示されて消えてしまう「サブリミナル効果」的状態になるだけですが)。

さて、こうして書き込まれたコメントが、動画再生中に次々と流れていく様子は、まるで1つの画面をみんなで鑑賞しながら、動画の内容について、視聴者の側でワイワイガヤガヤと会話を交わしたり、ツッコミを入れたりする《かのよう》だ、といわれます。さらにニコニコ動画では、同じタイミングで投稿されたコメントが多ければ多いほど、同時に画面上に表示されるコメント数は増大します。そのため、ついには肝心の動画自体が見えなくなってしまうほどに、コメントが画面上を埋め尽くしてしまうこともしばしばです。

しかしニコニコ動画では、むしろ画面上を覆い尽くすほどにコメントが投稿されているかどうかが、「面白さ」や「盛り上がり」を計るための指標になっています。ニコニコ動画で人気を集めている動画(たいてい「歌モノ」が多いのですが)では、その動画がひときわ盛り上がるポイントで、歌詞や決め台詞が一斉に投稿されます(それは「弾幕」と称されています)。まるでその様子は、スポーツ観戦やライブ・コンサート等の観客席において、観客たちが応援や野次や歓声を飛ばしながら、渾然一体になっている《かのように》も見えます。

ニコニコ動画というサービスの特徴は、こうした動画を視聴する側の「ライブ感」や「リアルタイム感」を醸成する点にあります。そして、この特徴は次のように言い換えることができるでしょう。YouTubeを始めとする、ニコニコ動画《以前》の「動画共有サービス」の主たる目的は、動画コンテンツそれ自体をネット上で共有することに置かれていました。しかし、ニコニコ動画では、もはや動画自体が見えなくなるほどコメントが投稿されてしまう点に端的に示されているように、動画コンテンツの視聴自体はもはや主目的ではありません。ニコニコ動画で目的とされているのは、動画を視聴する側の「体験の共有」に他ならない。つまり、このサービスをあえて一言で言い表すならば、「動画《視聴体験》共有サービス」とでもいうことができるでしょう。

■Twitterとの共通点:客観的には非同期的なコミュニケーションを、主観的には同期的なそれに変換すること(2-2)

ただし、ここで留保をつける必要があります。いましがた「体験の共有」と書きましたが、先ほどから《かのように》と強調してきたように、それはある種の「錯覚」によってもたらされている、ということです。なぜなら実際には、各ユーザーの動画の視聴行為やコメント投稿行為は、時間も場所もばらばらに行われているからです。あくまで《客観的》に見れば、ニコニコ動画において、人々はばらばらに動画に対してコメントを投げかけている以上、それは「非同期的」なコミュニケーション行為です。これに対し、ニコニコ動画というアーキテクチャは、「非同期的」に投稿されている各ユーザーのコメントを、動画再生のタイムラインと「同期」させることで、各ユーザーの動画視聴体験の「共有=同期」を実現しています。

これを冒頭で挙げたフィルムの比喩で説明してみましょう。ニコニコ動画とは、映画のフィルムの上に直接文字を書き込んでしまうことで、その文字を直接スクリーン上に映し出してしまうようなもの、と述べました。フィルムというものは、通常ぐるぐるに巻かれている状態にありますが、これをビーっと引き伸ばせば、一本の「定規」に見立てることができます。この「動画≒フィルム≒定規」のアナロジーが意味しているのは、こういうことです:「動画」というものは、基本的に――あまりにも当たり前な事実の確認になってしまうのですが――誰に対しても、「前から後ろへ」という単一の方向に従って、きっちり同じ時間だけ再生される、という客観的な特性を持っています(もちろん一時停止や、早送り・巻き戻しをすることは可能ですが)。すなわち、動画を再生するという行為は、その動画を見る誰もが、「同じ長さと同じ目盛りの定規を持っている」という状態に等しい。そしてニコニコ動画というアーキテクチャは、各ユーザーから「非同期的」に投稿されるコメントを、この「定規の目盛り」に沿って整理することで、動画が再生される際、いかなるユーザーに対しても等しく「同期」されたタイミングでコメントを呼び出すことができるわけです。

以上の考察を、「主観的/客観的」という軸に沿って整理しなおしてみます。これも当然のことですが、本来「ライブ感」というものは、いわゆる《客観的》な意味での「時間」(≒時計が正しく刻んでいる時間)を共有していなければ、生みだされることはありません。しかし、ネット上で動画を観るという行為は、《客観的》な時間の流れから見れば、各ユーザーが自分の好きな時間に・自分の好きな動画を(=オンデマンドに)視聴するという、「非同期的」な行為である以上、基本的にライブ感を生み出すことはできません。これに対し、ニコニコ動画は、動画の再生タイムラインという「共通の定規」を用いて、《主観的》な各ユーザーの動画視聴体験をシンクロナイズすることで、あたかも同じ「現在」を共有しているかのような錯覚をユーザーに与えることができるわけです。哲学・思想用語をあえて比喩的に(誤用的に)使えば、ニコニコ動画は、アーキテクチャによって「間主観的」な同期性を実現するサービスということができるでしょう。

いささかくどくどしい説明が続いてしまいましたが、以上に見てきたように、ニコニコ動画は、実際には「非同期的」になされている動画に対するコメントを、アーキテクチャ的に「同期」させることで、「視聴体験の共有」を擬似的に実現するサービスであるということができます。そして、こうしたニコニコ動画の特徴は、前回記述したTwitterのそれと極めて類似しています。前回筆者は、Twitterについて、《基本的には「非同期的」に行われている発話行為を、各ユーザーの自発的な「選択」(の連鎖)に応じて、「同期的」なコミュニケーションへと一時的/局所的に変換するサービス》と説明しました。Twitterもニコニコ動画も、ともに《客観的》な時間の流れから見れば、利用者の間のコミュニケーションは「非同期的」に行われているけれども、各ユーザーの《主観的》な時間の流れにおいては、あたかも「同期的」なコミュニケーションがなされている《かのように》見えるということ。この点において、Twiiterとニコニコ動画は共通しているということができます。

もちろん両者の間には、見逃せない差異もあります。Twitterでは、各ユーザーの自発的な選択によって同期的なコミュニケーションが立ち現れるのに対し、ニコニコ動画では、「動画という定規」に沿ってコメントを保存し・呼び出すというアーキテクチャの存在によって、Twitteのような「自発的な選択」という契機は必要とされません。ニコニコ動画のユーザーは、ただニコニコ動画上で動画を再生するだけで、他のユーザーの視聴体験とのシンクロをいわば「自動的に」感受することができます。第一回で、「アーキテクチャ/情報環境」の特徴を、法律のように人々が自覚的に守らなければ機能しない規制を「自動的に」(物理的に・無意識のうちに)実行する点にあると説明しましたが、この観点からいえば――極めて粗い表現になってしまいますが――、Twitterよりもニコニコ動画のほうが「アーキテクチャ度が高い」ということもできるでしょう。

ただし次回以降は、こうした両者の差異に着目するのではなく、その共通点が持つ意味や背景について考えてみたいと思います。ブログやSNSに次ぐサービスとして注目を集める、米国発のWeb 2.0系コミュニケーション・サービスTwitter。一方、日本において、2ちゃんねる以降のネット文化の延長線上にあるサービスとして誕生したニコニコ動画。この両者は、「テキスト」と「動画」という扱うコンテンツの差異のみならず、地理的にも、そして文化的にも大きく離れているように見えますが、2007年というほぼ同時期に、きわめて類似した特徴を持って(それこそ「同期」するかのように)登場したということ。そこから読み取れるのは果たして何か。以下、次回に続きます。


■参考URL

(本文中で引用する形ではリンクできませんでしたが、ニコニコ動画についての参考記事を挙げておきます)


「新しい価値を作った」ニコニコ動画(β)監修の西村博之氏インタビュー:Internet Watch
ITmedia News:「面白くないものが面白くなる」 ひろゆき氏が語る「ニコニコ動画」の価値 (1/2)
ニコニコ動画が思い出させてくれたもの - ナレッジ!?情報共有・・・永遠の課題への挑戦 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]
A Successful Failure - ニコニコ動画の傾向と対策

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。