日本的経営とCSRの微妙な関係
2010年6月 7日
(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら)
読者の皆さん、ご機嫌いかがであろうか。この原稿が掲載される頃、サッカー世界杯をひかえ世の中高揚していると思われる。私はあのスポーツに関心はないが、もちろん国民の一人として代表チームの健闘を祈るものである。
サッカーと言えば、留学から戻った1994年の夏のこと、ワタシは驚愕した。日本にそのようなスポーツが存在しているのかどうかさえ必ずしも定かではなかった、あのサッカーが肩で風を切って威張っているではないか。この間わずか2年。日本は変わるときは突然変わるんだなぁと思ったものである。
他方、変わったような、そうでないようなものもある。「日本的経営」もそのひとつである。消滅したと側聞することもあるが、思い出したように不意を突いてくる。「CSR」という言葉が輸入された当時もそうであった。
「今更西欧人が何をぬかす。日本的経営こそCSRの神髄である。」
プチ・ライトウィング的爽快に身を委ねる日本のエグゼクティブも少なからずおられた。かくして、不遇を託っていた日本的経営論に久しぶりにスポットライトが当たったのである。
小生は、この動きを「CSR懐古主義」と命名し興味深く観察させていただいた。「江戸時代はエコでよかった」論、聖人に列せられた近江商人、そして終身雇用などなど。一連の同時多発的温故知新運動は、CSRの議論に観迎すべき潤いとペダンチックな幻惑を添えたと思うのである。
そういえば、先方をおもんばかってか、ヨーロッパのCSRはギリシア文明まで遡るという気宇壮大な論もあった。古典古代である。スケールがちがう。小生は大いに触発され、
「和を以て・貴しと為す・CSR」
リズムもよろしく「十七条の憲法こそCSRの源流」でメジャーデビューを画策したが、やめといてよかった。
ちなみに現代ヨーロッパとギリシア文明の関係は興味深い。両者はほぼ完全に断絶しているというのが現代歴史学の定説である。ヨーロッパの民主主義の起源もギリシアのポリス民主制ではなく、ゲルマン民族の合議制にあるとされる。もっとも、ヨーロッパ人のギリシア・コンプレックスは根強く、自らのアイデンティティをなにかとギリシアにかこつけて語りたがる。日本で山深い集落に平家の落人伝説が伝わるのに近い。現代ヨーロッパとギリシア文明の連続性については常に慎重な考察が必要である。
日本的経営とCSRの関係に戻ろう。両者には確かに重なっている部分がある。
日本的経営の特徴は「長期的エンゲージメント」とされる。社員、サプライヤー、銀行といったステークホルダーとの長期安定的関係に基づく双方向のコミットメント。ややステレオタイプ的にアングロサクソン流経営を「株主至上主義経営」と言うとすれば、日本的経営のほうが「ステークホルダー・コンセプト」と親和性がある。
日本企業のステークホルダーとのエンゲージメントは「長期的」なものであり、日本的経営は「長期経営」であるとも理解されている。四半期の数字に目を奪われがちな欧米の短期主義経営よりも、日本企業のほうがサステナビリティに不可欠な長期的視点を持つことに馴染みがあると考える向きも多い。
ただし微妙なのだ。
まず、ステークホルダーのとらえ方である。「株主」のみを考えるより広い。しかし、終身雇用の今日的CSR的限界は、正社員の雇用の安定が非正社員の苛烈な処遇によって支えられているという点、女性差別になんらの回答も出せなかったという点などにある。サプライヤーは重要なステークホルダーと位置づけられてきたが、しかし、サプライヤーで働く労働者は外に置かれた。
「長期経営」。日本企業の長期経営は、エンゲージメントの長期性である。「ステークホルダーとの関係を長期間変えない」ことが日本的経営の長期性であると言っても大きな間違いではないだろう。厳しい経営状況でも歯を食いしばって整理解雇をしない、サプライヤーも切らない。銀行もそう簡単には融資を引き上げない。長期的コミットメントの故に企業とステークホルダーが力を合わせて困難を乗り切る力が出る。「すり合わせ型」経営にも向いている。確かに日本的経営の強さだ。
しかし、CSRが求める長期経営は、バックキャスティング的な長期性である。長期の展望をもってあるべき将来を思考し、逆算して今なすべきことを決める。今を変えるための長期性と言える。今日、生物多様性の減少が国際的問題となり遺伝子資源の希少性に関心が高まりつつある。日本企業の危機意識はまだ不十分であるが、アメリカのケロッグ社は1970年代に国連機関と協力して国際的な遺伝子情報バンクを設立している。この先見性。
日本流の「長期的エンゲージメント」は過去から現在を経て未来に向かうベクトルを持つが、CSR経営のためには未来から現在に向かう逆方向のベクトルを必要とする。同じ「長期」だけに混同されやすいが、意味合いはちがう。もちろん、この二つの「長期」は相互排他的ではない。ステークホルダーとの長期的エンゲージメントを守りながらバックキャスティング経営を取り入れることは可能である。
なぜできなかったのだろう。おそらく日本の経営幹部も論者も「日本的経営」や「三方良し」という言葉を口にすることで、それ以上の思考をすることをやめてしまったのだと思う。伝統的なアングロサクソン経営に比べて高い社会性を有しているという一点で思考を停止してしまったような気がする。日本的経営はCSRの要請に十分応えるものなのか、踏み込んで考えようとしなかった。そうこうしている間に「短期主義的で株主のことしか考えない」と多くの日本の重役さんが蔑んでいた欧米企業に追い抜かされてしまった。
しかし、ここは前向き思考でいこう。逆にいえばCSRは今なお日本的経営を進化させるだけの潜在的ダイナミズムを有しているのだ。顕在化させるためにはどうしたらいいのだろう。
耳を澄ます。ことではないかと思うのである。
小生、会社の偉い方にCSRのお話をするとき、「ピッチャー」と「バッター」のたとえを使う。ピッチャーとは「能動性」の象徴である。内角高めに速球を投げるのか、それとも外角にスローカーブでいくのか、決めることができる。バッターは「受動性」の象徴である。どこにどんなボールがくるのかわからないが、来たボールに適切に反応しなければならない。
会社において事業をするというのはピッチャーに似ている。どの事業分野を捨ててどこに注力するという能動的判断である。一方、CSRへの取り組みは究極的に受動的である。社会が自らに何を求めてくるのか、社会の要請が日々変化している以上、予期せぬコースにボールが来ることを前提としなければいけない。
過去2回にわたってISO26000について検討したが、ISO26000は「ストライクゾーン」を格段に拡げる。バッターボックスに立っている企業には今後ますます広い視界と柔軟性が求められることになる。
マイケル・ポーター先生が戦略的CSRと言われたが、ポーター先生が論じておられるのは社会貢献である。社会貢献はもとより能動的なものであり、事業と同様「選択と集中」が可能である。しかし、CSRに取り組むにあたっては「正社員の処遇の問題に集中しサプライヤーの労働問題は捨てる」、「環境だけに絞る」などということは出来ない。
まず、ステークホルダーの声を虚心坦懐に聞こう。自社に届く声だけでは不十分かもしれない。同業他社、とくに海外の企業に寄せられている社会の声にも耳をそばだてる必要があるだろう。
美しい自画像を描きたいという衝動に抗しよう。その先に日本的経営の将来があるはずだ。
藤井敏彦の「CSRの本質」
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