藤井敏彦のCSRの本質的最終回:「人権」
2011年5月24日
(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら)
みなさんこんにちは。来るべき時が来ました。2007年からあしかけ4年、「藤井敏彦のCSRの本質」もついに持続可能性が突きました。今回で連載がおしまいとなります。長きにわたりご愛読いただきありがとうございました。
最終回ですので、難問中の難問に取り組んでみようと思います。「人権」です。国際社会で欧米が語る「人権」です。少し長くなりますことお許しください。
おそらく、腑に落ちている人は滅多にいないのではないでしょうか。「人権」という概念に我々は懐疑的であります。しっくりこない何かを感じます。しかし、不思議と「環境」にはそういうものはあまり感じない。「環境?あ、環境ですか。いや〜、ホント大切ですよね!」と欧米人とすぐ握手できます。東南アジアでも、南米であっても、環境保護を呼びかけることに日本の会社は躊躇しない。が、人権となると、「人権、う〜ん、ま、あれですかね。なんて言うか」って感じになる。発展途上国で「皆さん、人権を守りましょう」などという「お説教」をする気にはあまりなれない。
確かに環境保護と人権の間には質的な差があるような気もします。環境保護は相対的な概念です。絶対的なものにしたら人間は生きていけない。しかし、人権は「人が人であるが故に持っている本質的権利」などと言われ、往々にして絶対の概念のように扱われます。もっとも、本当の意味で絶対的な価値は存在しないのではないかと私は思います。「エクアドル熱帯雨林『人質』作戦が問う『エコとカネ』」の回で紹介しましたが、私の留学先の経済学の教官は次のように言われました。
「人の命に値段はつけられない」といったことを言う向きもあるが、まちがいである。級友が人質になったとしよう。身代金としてクラス全員に一人500ドルずつ要求されたならおそらく皆支払うだろう。しかし、5万ドルいや100万ドルではどうだろう。1000万ドルだとすれば誰も支払わないかもしれない。もしそうだとすれば、人質になった人間の命の値段は500ドルと1000万ドルの間のどこかにあるのである。世の中に値段のつかないものはない。
何かに「値段」がつくということは値段がついている他の何かと価値の比較ができるということにほかなりません。人命でさえ相対的なものです。しかし、このようなことは表だって言われません。その代わり「人命は地球より重い」などと言って「絶対性」が語られるのです。環境保護は「環境破壊はできるだけ小さくしましょう。環境はできるだけ保護しましょう」という運動ですが、「人権はできるだけ尊重しましょう」などと言うとしかられてしまいます。ともかく、「人権」という概念には「環境」にはない、一神教的色彩を帯びた「絶対なものへの確信」を我々は感じるがゆえに居心地が悪くなるのかもしれません。
次に「社会貢献」と「人権」を比べてみようと思います。若い人の社会貢献への熱意には驚かせられます。先日ある会社の社長さんのお話を伺っていてなるほどなあと思ったのですが、若い社員は会社が社会貢献プログラムを提供してくれることを強く望むそうです。私は社内運動会とか社員旅行とかいった会社と私生活の境界を曖昧にする制度を拒絶してきた世代に属しています。しかし、社会貢献という究極的に個人の価値観に依存する事柄について若い社員が会社のガイダンスを望むというのは、世代が変わったということなのでしょう。社会貢献プログラムは現代版社内運動会的役割も担うのかもしれません。
話が横道にそれましたが、社会貢献に従事した若い人に聞くと、「感謝」されたことで自分の存在意義が確認できたといった感想を述べる人が多いそうです。確かに、困っている人が「望むこと」をしてあげて、「感謝」され、そのことで自らの人生に対するモチベーションも上がるというのが社会貢献の基本的循環のようです。
そして社会貢献と人権の小さな相違点もそこにあります。「困っている人がいる」という出発点は一緒です。津波で家が泥だらけになり困っている。人種や性別を理由に差別されて困っている。しかし、人権問題は人為的に作り出されるものです。つまり積極的に「差別している」人、組織が存在しているという点で大きく異なります。人権問題への対処は、差別している側に差別をやめさせることです。「感謝」されるどころか、衝突するかもしれません。お年寄りの入浴を助けることも、瓦礫を片付けることも、そのために誰かの考え方を変えさせるという行為は必要ありません。しかし、人権問題を解決するためには、ほぼ確実に人権を侵害している人の考え方を変えなければなりません。社会貢献が「手足を使う」ことだとすれば、人権問題への対応は「介入」であり「説得」であります。CSR調達のことを考えればこれは明らかです。
まとめてみましょう。人権とはその「絶対性」の装いのために相対的世界観を持つ我々にとってなかなかしっくりこない概念であり、しかも、その腑に落ちていない概念を掲げて、人権侵害をしている人とされている人の間に介入しなければならないという厄介なものです。腰が引けるのもわかります。
ただ、「人権」は総括的概念です。その総括性のベールを取り去り、中に分け入ってみれば、そこには様々な具体的状況が存在しています。もし親しい友人が日本人であるからといって職場で差別にあっていたらあなたはどう思うでしょう。貧しさからどんなに悪条件でも働かざるを得ない人が弱みに付け込まれて半ば奴隷のように酷使されていたらどう思うでしょうか。あなたの子供がその政治的活動のために拷問を受けていたらどう感じるでしょうか。このような状況に置かれた人々の苦悩や悲しみは天災の被害にあった人のそれに比べて軽いものでしょうか。手を差し伸べる必然性の低いものでしょうか。
「手を差し伸べる」と言いましたが、一体どうすればこういった状況は正すことができるのでしょうか。過酷な労働の現場に行って一緒に働けばよいのでしょうか。おそらくそうではありません。議論し「説得」しなければならないのです。「日本人であるが故に差別するのは不正だ」、「そんな低賃金で働かせるのは不正だ」、「拷問は不正だ」と言わなければならない。しかし、それぞれはなぜ「不正」と言えるのでしょうか。彼らは不正だと思っていないのです。「俺は日本人が嫌いだから日本人を差別するのだ。何が悪い。嫌なら辞めろ。」、「飢え死にしないだけましだ」、「国の安全保障のために拷問することは当然のことだ」と言い返されたら、あなたはなんとやり返すでしょう。
議論の正邪を決める絶対的尺度はありません。しかし、「おっしゃるとおり確かに物事は相対的ですな。では失礼」と引き下がるわけにはいかない。人間として誰もが持つべき価値観にもとる、という議論をせざるを得ないのではないでしょうか。その点に相手の共感をなんとか得るしかないのではないでしょうか。あきらめずに粘り強く議論するあなたがよって立つ根拠は最終的に「人権」という言葉で総括されるものとあまりちがわないものになっているのではないかと思うのです。その言葉を使うかどうかは別として。
「人権」という概念は虐げられて苦しむ人々、その個別具体的な苦境を救う手段だと私は思うのです。被災地のボランティアが手にするスコップやシャベルのようなものです。それがなくては苦しむ人が救えないのです。スコップが絶対的なものかどうかなどと考えても仕方ないのと同じで、人権が絶対的なものかどうかを考えることにもあまり意味はありません。道具なのですから。そして、その必要性は意志の関数です。被災地で人助けをしようと思う人にとってスコップは必要なものです。同じく、差別され自由を奪われて苦しむ人を救おうと思えば、人権という概念的道具もどうしても必要なものになります。
冷笑的態度をとることは簡単です。懐疑も健全なものかもしれません。しかし、あなたが誰かを救おうという意志を持ったとき、人権という価値の実用的側面に気づくはずです。人として、組織として、どのような世界をつくりたいのか、熟考した末にもう一度「人権」という言葉に立ち戻ってみれば、そこにはそれなりに「しっくりくるもの」が見いだせるかもしれないと思うのです。人権という言葉に価値を見出すかどうかはあなたの世界観次第なのだと思います。
これまで私の勝手な世界観を書き綴る機会を与えてくださいましたワイアードビジョンさん、毎回原稿の編集の労にあたってくださった清田辰明さん、そしてずっとおつきあいくださった信愛なる読者のみなさま、ありがとうございました。深く御礼申し上げます。私はこの連載に大いに救われてきました。夏に出る本には「ルール・メーカーの条件」という仮題をつけました。日本という国とそこで育ってきた会社はいかなる世界を形づくる意志を持つのか、ということがテーマです。連載とシンクロして書きましたので、「ああ、コイツこんなこと書いていたな」と既視感を堪能していただけるかもしれません。
ご縁があってまたどこかでお目にかかれますよう祈っております。では、さようなら。
藤井敏彦 (weeeros@hotmail.com) でした。
藤井敏彦の「CSRの本質」
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