社会的責任ISO26000私評:ガイダンスという名の規格 その1
2010年3月 1日
(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら)
今回で1年12回連載の四分の一。早いなあ。今月の体感スピードも制限速度を超えそう。ジュネーブに一週間、ワシントンからパリにまわって二週間。うーむ。知らないうちに桜咲いているかも。皆さんの3月は小生の3月ほどせっかちではないとよいのですが。
そうそう、私事ですが4月から慶應大学法科大学院でEU法を担当させていただくことになりました。慶應大学ロースクールの学生の皆さん、万一このブログをご覧になっていたら今すぐパソコンを閉じて勉強しましょう。ただし、講義は頑張ってやりますのでよろしければ受講してください。国際的に活躍できる法律家を日本は必要としています。
さて、本題ですが、これから何回かISO26000を取り上げようと思います。ドラフトに対する意見提出と投票の期間も2月14日をもって終了しましたのでちょうど良い頃合いかと考えた次第です。
企業の方々のご関心はとても強いようです。「ニマンロクセンができたらどうなるんですかね、フジイさん」と御質問をしばしばお受けします。読者の方の中には既に原案を読み込んだ方も少なからずいらっしゃると思います。内容を詳しくご説明しても釈迦に説法かもしれませんので、今日はこのヌエ的ともカメレオン的ともとれるキメラ的魅力に満ちた謎の文書を一歩も二歩も下がって俯瞰してみようと思うのであります。
もっとも、以下お話し申し上げますことは、その実、沢山の方から教えてもらったことのコラージュであります。みなさんお忙しいのに小生を教育してくださりありがとうございます。この場を借りて御礼申し上げます。
ISO26000の特殊性は二重構造になっていると思います。一つの特殊性はとりわけ日本企業に強く感じられるもの。内容にかかわる特殊性です。もう一つの特殊性はISOシステムにおける26000の異分子性。ISO界の「みにくいアヒルの子」、「ガイダンスという名の規格」であることが含意するシステミックな特殊性であります。
日本人のはるか外側にある特殊性
まずは前者、内容についての特殊性を考えたいと思います。「ヨーロッパのCSRと日本のCSR」では詳しく検討しましたが、ここでは簡単に歴史を遡ります。まずISOの名前を一般に知らしめたISO9000。世界に冠たる日本産業界をしてISO藁人形に釘を打たせしめた、あの呪詛された規格であります。蝋燭鉢巻き姿の産業人の方々の表情、鬼気迫るものがありました。なつかしいですね〜。
ISO9000は皆様ご案内のとおり品質管理のマネジメント規格です。日本企業は当時品質管理について絶対の自信があった。おそらく過剰な自信があった。しかるに(品質管理をろくにできないとみなされていた)ヨーロッパが身の程を知らずに提案した国際規格を飲み込まされた。当時の日本の多くの産業人は「ヨーロッパ」を「品質」のカウンターコンセプトみたいに思っていましたから。しかも認証をとることが取引の条件になっていき(意味がないと思っている)規格の認証を費用をかけてとることを余儀なくされたこと。ISO9000はISOトラウマを残したのであります。
次にこれもまた広く知られている環境管理規格のISO14000。過去を忘れるという能力において他民族の追随を許さない我々日本人。一転しISO熱烈観迎の横断幕が会社のオフィス、工場、市役所から学校に至るまで全国津々浦々に掲げられたのであります。NHKはプロジェクトX仕立てにし、我々小国民は総力を結集し、ISO14000認証をとってとってとりまくった。廊下の蛍光灯を半分消すことに民族の威信をかけたのであります。しかし興奮は時とともに定義的に錯乱に近づく。やがて取得件数が爆発する一方で一体何のために何をやってんだかよくわかんなくなっていく終末状況が訪れます。ISO14000は日本社会に壮大な虚脱感を残したのであります。もう忘れちゃってますが。
で、26000です。26000の最大の特徴は、日本人にとって目にしたことも、いわんや思考を致したことなどあろうはずもない新奇なる内容であるということにあります。日本人は品質保証について自分達が世界最高の権威だと疑わなかった。ISO9000は故に憎悪された。省エネは日本人のアイデンティティだと確信していた。ISO14000は故に抱擁された。しかし、ISO26000に書いてあること、環境や地域社会といった一部の項目を除いてですが、大半は日本人の知識と関心のはるか外側の領域にある事柄なのであります。
「ジンケン?」
相手の正体が不明であるが故に嫌うべきか愛すべきか、どうしてよいかわからない。相手がこっちに関心があるのかどうかもわからない。横目でちらちら見てそしらぬ顔をしている、というのが現状ではないかと思うのです。
「みにくいアヒルの子」としての特殊性
次に後者、ISOシステムにおける26000の特殊性です。「普通」のISO規格と比べてみましょう。3つあります。
最初の点は政府規制との関係です。ISOは民間団体です。ISO規格は民間の規格。にもかかわらず国家の行為を規律する国際通商法に引用されているという興味深いハイブリッド性を有しています。政府からギャラを頂戴している小生の正業では最近とみに関連するWTO協定の規定を使うことが多いです。
例えば、インドが鉄鋼に独自の強制規格を導入しました。インドで販売する鉄鋼製品はこの独自規格に合致していなければいけない。この「独自」というのがミソです。もしISO規格が存在していればISO規格を使うことがWTO協定上の義務になっています。WTO加盟国はISO規格がある場合は原則として「独自」の強制規格を導入することはできません。したがって、インドの鉄鋼規格のような問題が起こると、我々は対応するISO規格があるかどうか、あるときには独自規格を使わなければいけないだけの合理性があるのかどうかといった点を精査します。そして政府間交渉になっていくわけです。
逆に攻められたこともあります。JRの接触式の磁気カード、あの技術仕様はISO規格ではない独自のものです。実はWTO協定上JRは政府機関になっていて、したがって調達にあたってISO規格を使う義務を負っている。パスモ(イコカ)のシステムは導入前にWTO協定違反だと欧米から言われて一時危うい事態に立ち至ったことがあります。反論しきって事なきを得たのですが。
つまり、「普通」のISO規格は政府が規制をつくる際や物品調達する際の自由度を制限する機能を持っています。各国が勝手な規格をつくり貿易の障壁を築くことを防ぐためです。これが一点目。
この点、ISO26000はどうでしょう。結論だけ言えば、原案にはそのような政府を縛る機能は持っていないと書いてあります。
二番目の点は「認証」です。認証とは、文字通り製品やマネジメントシステムがある規格に合致していることを「認」めてその旨を「証」することです。認証には二つのやり方があります。自分でやる「自己認証」。誰かにやってもらう「第三者認証」。ある技術仕様や管理手法が「標準」である場合、その「標準」化の便益を受けることの裏返しとして「認証」が存在します。
やや敷衍しますと、「標準」の反対概念は「都度都度」、「ばらばら」ですよね。例えば、ある製品に求められる技術仕様が標準化されていない「その時かぎりのもの」なもの、アドホックなものである場合、その内容について仕様を求める側と求められる側の間には共通理解が存在しません。したがって対話によって理解をそろえるところからはじめなければいけません。時間もコストもかかる。しかしISO標準であれば、お互いわかっているという擬制がなり立ちます。
「ISO××でお願いね」「はいな」
ということで簡単にすむ。ただし、この簡単なやりとりですませられるためには相手が「ISO××」に実際に適合しているという安心感というか一種の前提が必要なわけです。この前提を提供するのが認証という行為です。したがって標準と認証は表裏一体の関係にあります。
ではこの点、「ガイダンスという規格」のISO26000の場合はどうか? ここも結論だけ先取りしておくと、ISO26000は認証の対象ではない、少なくともそういうものとして意図されていないことになっています。
三番目は認証の点と近いのですが、「普通」のISO規格はビジネス契約の条件となることが多いということです。先に申し上げましたとおりISO9000のときの日本企業の不満は、規格そのものに意味を見出していなかったことに加え、欧米企業とビジネス契約をするにあたってISO9000取得が条件化されたこと、その両方があったわけです。その意味でISO規格が契約条件になることにアレルギーがあるのはわかるのですが、ただ、ISO規格がなければ条件もなくなるという単純な因果関係にはないことに注意が必要です。
先ほど申し上げましたとおり、標準化されていなければ、異なる企業がそれぞれ必要と考える技術仕様やマネジメント手法を契約先に求める、という事態になる可能性は十分あります。「都度都度」、「ばらばら」な要求がなされる可能性です。ISO9000は災難だったと見るのか、それともISO9000の御蔭で欧米企業からてんでバラバラな品質管理規格を求められずに済んでよかったと考えるかの違いです。
で、この点ISO26000はどうなのか? この点も特殊で、26000は契約条件とすることを意図されたものではない旨、原案に書いてあります。つまり基本的に契約条件に入ることはないと想定されているわけです。
ISOのように「標準化」をミッションとする国際組織があるというのは、標準化がビジネスをスムースに進める意味があるからです。しかしながら以上の3つの点から考えるに、ある意味ISO26000は標準が標準であるが故にもつ意義や効能をほとんど捨てていると言えます。政府の恣意的な規制を抑える効果もなく、ビジネス上の要求事項のばらつきを抑える効果もない。
ではISO26000とは何なのか。内容に馴染みがなく機能もよくわからない正体不明の文書が普通のISO規格の中に加わろうとしているって感じなのです。この「みにくいアヒルの子」は、はたして物語のように長じて美しい白鳥として飛び立つのか?
続きは4月のお楽しみ。前回のラギー・フレームワークに続き、今回もコムヅカシイ話をしてすみませんでした。お疲れ様〜。
(参考にならない話)
以下はヒマでヒマでしょうがないというヒマ人の方のみご覧ください。
ごく一部の読者より「交渉の話も書いて」というご要望を頂戴しております。ご関心ありがとうございます。秘密がたくさんあるので、なかなか立ち入りにくいのでありますが、ヒマな皆様のヒマつぶしにお力添えすべく、今回はジュネーブのレマン湖に面して居を構えるWTO、難しい局面でもたいして難しくない局面でも小生が頭を抱えているそのWTOの石造りの館のすぐ前の「バス亭」を考察対象として取り上げたいと思うのであります。
小生、このバス停については長く疑問を感じてきたのであります。WTO正門の前にあるバス停の名前は「植物園」。なぜ「植物園」なのか。万国より参集した交渉官や国際通商法の碩学がこぞって乗降するバス停が「植物園」とはこれいかに。多角的貿易体制の重要性に関するスイス社会の無理解の故か、もしくは市内に国際機関が林立するため住民の間に広がる国際機関不感症の故か。
もしWTOが日本に引っ越しすれば、最寄りのバス停は「西山3丁目」であろうが、「山田総合ヘルスセンター前」であろうが、「世界貿易機関前」と改名されるに違いない。新しい地下鉄の駅が奮発される可能性さえある。私も出張がなくなってとてもうれしい。万一なんらかの理由によって停留所名が変更されない場合であっても、車内放送にて副次的位置づけが与えられるのではないか。「次は西山3丁目。西山3丁目。国際通商システムの殿堂、WTOにお出での方はこちらが便利です」といった具合だ。
このようにぜんぜん秘密でない部分においても、通商の仕事は知的な刺激に満ちている。国際通商問題に関心を寄せる有為な若者諸君、是非弊省の門戸を叩いてほしい。共に力を合わせ、スイス交通当局に翻意を促そうではないか。
(念のため)
もしかして慶應法科大学院の学生さん、まだいらっしゃいます? 読んじゃだめだって言ったのに。。。大丈夫です。大学当局はちゃんと考えておられます。共同講義で立派な先生が二人もいらっしゃいます。安心してください。ただこの連載、学内ではくれぐれも口外無用ということで。伏してお願い申し上げます。
Let's save life!・・・・of mine.
藤井敏彦の「CSRの本質」
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