このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

藤井敏彦の「CSRの本質」

企業の社会的責任(CSR)とは何なのか。欧米と日本を比較しつつ、その本質を問う。

「CSRが社会を変える」って本当にそう思いますか?

2010年7月 6日

(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら

読者のみなさんこんにちは。早7月ですね。ふと気づくと2010年もそろそろ中間決算の時期。みなさんの年前半はいかがでしたでしょうか。

といいながらなんですが、典型的なA型の小生、反省しはじめるとキリがなくなるので、反省は一切しないと心に決めております。自己規律としてね。

ちなみに、狭いかごの中で鶏がガマンできるのは、記憶の保持期間が短いためだそうです。何秒とかいう単位でしか記憶が続かないらしい。だから「閉じこめられている」という感覚も生まれない。常に新鮮。現代人たるもの誰もがなんらかの閉塞感に苛まれているのではないでしょうか。ということでワタシ右から左に記憶から削除することにしました。振り返ってもせいぜい先月くらいまでかな。

その先月はと言えば、ワシントンから戻ったその翌日に、水泳のマスターズ大会に出場。本年二戦目。時差ボケを活かして「無欲の勝利」を狙ったのでありますが、あやまって実力を発揮してしまい素晴らしく凡庸な記録で終了。それからレストアに出していた旅行用自転車が戻ってきました。日々幸福に包まれております。

さて、本題のCSRであります。

サッカーW杯の次は高校野球。ということで今回は熱血CSR甲子園!大きく振りかぶって内角ストレートな問題設定でいきます。「CSRには社会を変革する力があるのか?」ここ10年近くCSR、CSRと言われてきたわけですが、社会はそれによってなにがしか変わったのでしょうか。

先日ワシントンで企業の渉外の方とお目にかかる機会がありました。今上院に提出されている「コンゴ紛争鉱物法案(Congo Conflict Minerals Act)」の話を伺ったのです。コンゴ民主共和国産のコルタンなどの鉱物を使用する企業に毎年情報開示を求める法案です。成立すれば自動車、電気電子製品など広範な産業分野の企業に義務がかかることになります。ワシントンの複雑な政治的貸し借りの結果、この法案が議会を通過する可能性は「50%はある」とのこと。

「コンゴのコルタン」と聞いてピンと来る読者もいらっしゃるかもしれません。そう、コンゴ民主共和国(旧ザイール。お隣の「コンゴ共和国」とは別の国)で希少金属のコルタンからあがる利益が反政府軍に流れ人権侵害に使われているとの批判は今にはじまったものではありません。コルタンは携帯電話に使われており携帯電話メーカーと通信会社に批判が集中。この結果、2001年にブリティッシュ・テレコム、ボーダフォン等の情報通信企業が中心となってGeSI(Global e-Sustainability Initiative)が設立され、コルタンに関する調達基準が作られました。CSR調達がらみの本では必ずでてくる事例ですね。GeSIの調達コードは強制力のない自主的なものですが、約10年を経てアメリカで同様の内容の強制力をもった規制ができるかもしれないわけです。

皆様ご案内のとおりCSRを求められる企業は実際のところごくごく一部でしかありません。NGOが糾弾するのは誰もが知っている会社だけです。NGOさんにとっても費用対効果ってもんがありますからね。SRIが対象とする会社も同じ。基本的に大企業に限られます。社会を構成する企業の大半はCSRなど無頓着に動いています。誰もが知っているブランド企業とその一部のサプライヤーが行動を変えたとして、社会全体にどれだけの意味を持つのか、という疑問は極めて健全な疑問だと思います。

実は、ワタシはCSRの直接の対象企業が限定的であったとしても、依然としてCSRは社会を変革する力のある概念ではないかと思っています。しかし、ワタシが想定するのは「時間とともにCSRの考え方があまねく広まってすべての企業が自主的に社会的責任に取り組むようになる」というオムニプレゼント説ではありません。投資家がこぞってSRI的理念を奉じるようになり金融を通じて社会が変革される、としたら良いなと思いますが、そうなるとは思いません。

むしろ、先に挙げたGeSI(Global e-Sustainability Initiative)から「コンゴ紛争鉱物法案(Congo Conflict Minerals Act)」に至るダイナミズムに注目をしています。言うまでもなくGeSIは一部企業だけが傘下している自主的なスキームです。コンゴ紛争鉱物法案はあらゆる企業に強制的に適用されるルールです。CSRとルールの関係には思いの外深淵なものがあるように思えるのです。企業のCSRへの取組みが新しいルール(規制)の契機となるなら、一部の企業が取り組むことがルールの導入を加速するとすれば、CSRとルールの間には前者が後者を誘引する一種のダイナミズムがあるとすれば、CSRの社会変革に対する影響力に関する評価もそういうものとしてなされなければいけないのではないかと思うのです。

ルールが変われば社会は変わります。経営も。人の考え方も意外なほどあっさりと変わってしまいます。幾千の経営書や著名経営学者の言説よりも、国際会計基準IFRS導入は企業経営を本質的かつ不可逆的に変えてしまうかもしれません。リサイクル法が導入される前、各地の埋立地は冷蔵庫やクーラーで溢れんばかりになっていたこと、まだ記憶にありますか。ディケンズ他の産業革命時期のイギリスの小説家たちがさかんに告発した労働者の苛酷な待遇を変えてきたのは、労働法制の累積であって資本家の善意ではありません。

小生「アジアのCSRと日本のCSR」でCSRとルールの関係について考察を試みています(第6章「CSRを競争力につなげる道筋」)。大雑把に言えばこういう見立てをしています。ある企業(A社)がステークホルダーの懸念に応えるため某かの規律自己に課して業務プロセスを変革したとしましょう(例えばCSR調達)。A社はコストを負担することになりますよね。競合他社が同様の取組みをしないとすれば、A社は競争上の不利を被ります。そこでA社は他社にも同様の負担を課したいと考えるわけです。最も有効な手段が規制化です。コスト上の不利を解消できるのみならず、規制対応に先んじたことによる利益も享受できるかもしれないからです。この場合、ルール(規制)を生み出す原動力はCSRに取り組むA社の利潤動機であり、さらにそれを可能にするのはA社のルールづくりへの能動的姿勢(ロビイング能力)ということになります。

「自分だけ縛られるのは不公平だ」と言って他企業も巻き添えにするルールがつくられることは実際に起こってきました。例えば、OECD外国公務員贈賄防止条約もそのような例です。ことの始まりは日本のロッキード事件。日本の政治家に米国企業が賄賂を贈ったことが契機となって米国では1977年に「海外腐敗行為防止法」が制定されます。しかし、米国以外の国には同様な法律がなかったため、米国意外の国の企業は贈賄行為に手を染めてもお咎めがなし。このため商機を失っているとアメリカの産業界が訴えてルールのグローバル化を後押ししたわけです。

CSRは最終的に新しいルールを生み出すことで社会を変革するのではないか、と小生は考えはじめております。そうだとすればCSRだけを凝視していてもCSRが生み出す社会的ダイナミズムの全体像は見えてこない。もちろんCSRを社会貢献だと思ってしまえばルールにつながることはないわけですが、同様に企業が積極的にルールつくりに参加するロビイングが不活発な社会では、CSRがルールにつながる道筋はその分細いものになるでしょう。CSRが求める規律が広く社会を変えていくためには、何が必要なのか? 答えを探るためには、公共政策学的アプローチが重要になってくるのではないかと思うのであります。

ということで直球に力負けして内野フライという感じですが、もう少し上手に打ち返せるようになったら再チャレンジしたいと思います。勉強しなくちゃ。

では、次回は夏の盛り8月3日です。それまでお元気で。

フィードを登録する

前の記事

次の記事

藤井敏彦の「CSRの本質」

プロフィール

1964年生まれ。経済産業研究所コンサルティングフェロー。経済産業省通商機構部参事官。著書に「ヨーロッパのCSRと日本のCSR-何が違い、何を学ぶのか」、共著に「グローバルCSR調達」がある。

過去の記事

月間アーカイブ