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藤井敏彦の「CSRの本質」

企業の社会的責任(CSR)とは何なのか。欧米と日本を比較しつつ、その本質を問う。

ようこそ2009年、こんにちは社会主義(後編) 〜 新しい時代に新しい日本の理念をつくろう

2009年1月13日

(これまでの 藤井敏彦の「CSRの本質」はこちら

先週、2009年初回を「こんにちは社会主義」なるお題でスタートしました。もちろん、誰もが「なんとか主義」を奉じなければいけない、というわけではありません。ただ、欧米では「なんとか主義」を奉じているヒトが割と多いとは思います。「政策思想」への態度という点においてワレワレ日本人は相対的に淡泊であるようです。良し悪しは別としてね。

「主義」という言葉が頻用される分野として政策の世界とともに芸術の領域があります。芸術の世界での「様式」は、芸術家の様々な試みを帰納的に一般化、定式化したものですが、中でもある時代を象徴するような強い影響力を有した「様式」に「主義」という言葉があてられるように思います。印象主義とかロマン主義とか。

諸芸術の中にあって個人的な好みは音楽と建築なのですが、両者の特徴のひとつは「様式」もしくは「主義」の生成過程を比較的トレースしやすいことです。異なった「様式」を融合する試みが次第に定式化されて新しい「様式」を生むプロセス。ある様式が確立すれば、則った応用(楽曲や建物)が大量に生み出されます。例えば、音楽ではジャズ。「調性」と「和音進行」に基礎を置く西欧音楽と、独特の「音階」で支えられている米国民謡のブルースのフュージョンですよね。そしてジャズは街に溢れている。

現代人たる我々、グレゴリア聖歌からウィーン古典派を経由してエレクトロニカなどに至る西欧音楽の譜系はもちろん、邦楽、エスニックな音楽などありとあらゆる様式の音楽を同時代的に聴取しています。順列組合せじゃないけど様式の変遷が加速するのも道理であります。最近面白いと思ったグループにAPPLEBONKERという四人組があるのですが、「日本のテクノ・ロック・エレクトロバンド」って紹介されています。「テクノ」と「エレクトロ」ってどう区別すんだろ。深淵なり、汝、ミュージック。

公共政策の領域での理念としての○○主義は人々が心の中に抱いている(単純化された)世界像と言ってもよいでしょう。CSRがどうも日本人の「腑に落ちない」ことの遠因も○○主義への関心の薄さにあるのかも。CSRはある意味、対立する政策思想のぶつかり合いの中で産み落とされたものですから。リベラルな思想とソシアルな思想。この手のダイナミズムに関心が向かわないと「要するに企業倫理?」ってことになってしまいがち(企業倫理はもちろん大切なことです。ただCSRとは別のものってことで。念のため。あと、「リベラル」と「ソシアル」ってなにか、という点については「『リベラル』なヨーロッパって?」の回をご参照ください。)

しかし、もしかすると今年は変化があるかもしれません。昨今の「なんとなくソーシャリズム」的雰囲気は、雰囲気だけで終わらずに日本にもリベラル対ソシアル的な理念的軸を作ることになるのか、小生は非常に関心があるのであります。

そのためには、みんながソシアルになっちゃダメ。あくまで市場主義を貫徹する主張も必要なわけです。日本はとかくどっちか一方向にみんなで行くから。。。規制緩和のときもメディアの報道はほとんど大政翼賛的だったでしょ。今度はどうでしょうね。

加えて、我々一人一人もどのような世界観(理念、主義)を持つのか考える良い機会かもしれませんよ。CSRに関心がある方には中道左派的な世界観を持つ方が多いかもしれません。市場の機能を重視しつつも非経済的な価値(たとえば環境とか人権とか)と市場が衝突する場合は市場をある程度抑制することはやむを得ないと考える立場です。よりソシアルな立場をとる人はCSR(=企業の自主的取組み)なんて生ぬるいこと言わずに全部規制すべき、って考えるかもしれない。純粋な形でリベラルな世界観を持てばCSRには懐疑的にならざるを得ないと思います。

どのような政策思想をとるにしても、外的環境をどう見るかというところが出発点になります。ある人が様々な外的環境をどう見るか、その見方を帰納的に一般化することでその人なりの「主義」や「理念」が形成されていくわけですから。注意しなければいけないのは、新聞やテレビが伝える外的環境は「事実」ではなく「疑似事実」、もしくは「解釈された事実」であるということです。そしてメディアの「解釈」はステレオタイプに基づく一刀両断であることが少なくない。

W.リップマンは1922年の著書「世論」で次のように述べています。

「世論が言及する対象になる諸状況は、意見というかたちでしか知らされない。」
「それぞれの人間は直接に得た確かな知識に基づいてではなく、自分でつくりあげたイメージ、もしくは与えられたイメージに基づいて物事を行っていると想定しなければならない。」

「イメージに基づいて物事を行う」ことはこの複雑な社会において仕方ありません。個人がすべての事実にアクセスすることは不可能だから。ただ、できればイメージであっても「与えられた」ものではなく「自分でつくりあげた」ものでありたいですよね。そこには判断とか思考の過程があるから。

かくして一人一人の思考と判断を伴いながら日本の社会に様々な主義主張が生まれ、議論が戦わされるうちに次第に日本が外に向かって打ち出せる理念や主義が形づくられるのではないかと思うのです。

CSRという言葉に接し、多くの人は「欧米の押しつけ」ではないか、と違和感を持ちました。しかし、日本で独自の理念を作ろうとする知的な作業はほとんどなされないままです。無理からぬことで、日本発の理念なんていうものは、別にCSRに限らず、様々な主義や理念が相克しあう国内プロセスがなければ生成されない。委員会や研究会でCSRの定義をしてみる、というような類のものではおそらくない。

音楽の例を再度援用すれば、そもそもハイブリッドな存在であるジャズ自身も現在進行形で変幻しています。たとえばニュージャズ(nu jazz, nu-jazz, NuJazz)。ウィキペディアによれば、ニュージャズとは「1990年代後半に新たにつくられた包括的な用語で、ジャズをもとにしてファンクやエレクトロニカやフリー・インプロヴィゼーションのような他の音楽スタイルがブレンドされた音楽のことを指している」とのこと。

「ジャズ」、「ファンク」、「エレクトロニカ」といった一定の様式が混ざり合って新しいコンセプトが生まれる。同様に、今日の経済危機の中で様々な主義主張や理論や理念が戦わされ、混ざり合えば、新しい時代に日本が新しい知的コンセプトを世界に発信できるかもしれません。

2009年は「主義主張の年」かもしれません。みなさん、大いに論陣を張りましょう。自分の世界観を、そしてその先に日本の理念を、作り上げていこうではありませんか。

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プロフィール

1964年生まれ。経済産業研究所コンサルティングフェロー。経済産業省通商機構部参事官。著書に「ヨーロッパのCSRと日本のCSR-何が違い、何を学ぶのか」、共著に「グローバルCSR調達」がある。

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