オープンエデュケーションとその持続可能性
2010年11月11日
(これまでの yomoyomoの「情報共有の未来」はこちら)
少し前に梅田望夫、飯吉透『ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命』を読了したのですが、これまで何度もフリーカルチャー、オープンコンテンツを話題にしてきた本ブログのテーマにも関わる本だと思うので、今回はこの本の話から始めます。
『ウェブで学ぶ』は、アメリカ発のオープンエデュケーション運動の豊富な事例を踏まえ、「知の宝庫」としてのグローバルウェブの可能性を論じた本です。民間財団の役割など日本にいてはピンとこない話も多いですし、何より MIT オープンコースウェア(OCW)のはじまりから現在までの急激な展開の話が面白く、教育分野を通して21世紀に生きる我々が置かれた立ち位置を考える上で多くの示唆を含む本だと思いました。
ただ本書を読み終えて、根本的な疑問が自分の中で燻るのも感じました。それは現状をもって OCW は「成功」しているとは言えないのではないか? ということです。
MIT というアメリカを代表する大学の学部、大学院課程のすべての科目について、その講義内容を資料を含め無償公開する、という構想についてどう思うかと言われたら、それは文句なしに素晴らしいと答えるでしょう。しかし、理想の高さと現実の成功は別問題です。MIT に限らず全米の一流大学に広がった OCW は、その構想の壮大さ、理想の高さに見合う「利用」がなされているか、教員のインセンティブを高め、大学に正のフィードバックが行われているかとなると疑問です。本書では個人の「情熱」、「狂気」といった言葉が多用されていますが、それは上記の問題の裏返しにも思えます。
ワタシが OCW の成功度合いについて懐疑的なのは、『ウェブで学ぶ』にも名前が挙がるオープンエデュケーション分野の第一人者であるデヴィッド・ワイリー(David Wiley)ブリガムヤング大学准教授の、現在の OCW には sustainable なプランがないという主張を前に読んでいたためかもしれません。
ワタシがワイリーのことを知ったのは10年以上前で、山形浩生が主宰するプロジェクト杉田玄白のページにはられていた OpenContent.org のロゴをクリックしたのがきっかけでした。当時から彼はオープンコンテンツ、オープンエデュケーション運動の主導者で、現在のクリエイティブコモンズのさきがけとも言える存在です。Fast Company による「ビジネス界で最もクリエイティブな100人」に選ばれるなどその活動は高く評価されています。
ワイリーは、飯吉氏が編者を務めた『Opening Up Education: The Collective Advancement of Education through Open Technology, Open Content, and Open Knowledge』にも 2005-2012: The OpenCourseWars という2045年に書かれた自伝からの抜粋という形式で OCW が抱える問題点を突く、読みようによってはいささか意地悪な文章を寄せています。
ワイリーは、今の形の OCW には未来はなく、単位が取れる遠隔講義を実施しない OCW は2012年までに終焉を迎えるだろうという厳しい予測をしています。ここでの「終焉」は、オンラインにコンテンツは残るものの、十分な利用という真の成功が見込めない発展性のない状態を指しています。ワイリーは、大学や財団からの寄付を財源とし、「情熱」や「狂気」を原動力とする現在の OCW は sustainable でなく、教育リソースのオープン性を維持しながら、単位が取れる遠隔講義などで収益をあげるモデルの確立こそが OCW が目指すべき次の段階だと考えているようです。
『ウェブで学ぶ』には、MIT がドットコムバブルにあやかろうとオンライン教育のビジネスモデルを検討するも、どうも現時点では儲かりそうにないという結論に達したことで(逆説的に)OCW が始まった話がありますが、最近になって MIT が再度オンライン教育ビジネスを検討していることが報じられています。
教育リソースのオープン性の維持とビジネスモデルの模索はワイリーが一貫して目指しているところのようで、それは sustainable という単語に集約されます。
ここまであえてこの sustainable という単語に日本語訳をあてずに来ましたが、ワタシが「持続可能性」を意味するこの単語に意識的になったのは、ワイリーのことを知ったのと同時期である10年以上前のエリック・S・レイモンドの HotWired インタビューがきっかけでした(これも山形浩生の仕事か......)。
それともう一つ、ぼくは自由とかの話はあまりしたくないのだ。別にぼくだって、ゆずりあいと共有に基づく社会がいやだと言うんじゃない。でも、自由のためにオープンソースを使っていただく、というのは変だと思う。オープンソースはそれ自体メリットのあることで、だから採用しましょう、というのをきちんと説得できなければ、絶対に行き詰まるよ。だってそうでないとしたら「オープンソースは実はダメなんだけれど、自由な社会のために我慢して使ってください」ってこと? ダメダメ。そんなのSustainableじゃないでしょう。そしてぼくは、オープンソースはそれ自体で理にかなったものだと思っている。そうじゃなきゃこんなのやらないよ。
ワイリーがオープンエデュケーションの分野で主張していることは、90年代末にレイモンドがオープンソースについて言っていたことと近いように思えます。初期のフリーソフトウェア運動は、リチャード・ストールマンを中心とする人たちの一種の「狂気」に支えられていたことは間違いなく、レイモンドもその功績は当然認めています。しかし、フリーソフトウェアを企業に使ってもらうには、その高い理想は理由にはならず、それ自体に経済的優位性があることを説得できなければ sustainable とは言えないと考えたのです。
オープンエデュケーションとビジネスの共存というワイリーの志向性は、彼が COO を務める Flat World Knowledge というスタートアップにも見ることができます。ところで COO というと通常 Chief Operating Officer(最高執行責任者)の略ですが、ワイリーの場合は Chief Openness Officer の略で、彼に求められる役割が分かります。
Flat World Knowledge は DRM フリーで無料のデジタル教科書を提供する出版社で、この分野にベンチャー企業が参入できる理由に、米国における教科書代の高騰という問題があります。『ウェブで学ぶ』にも、アメリカの大学生が教科書代として年に10万円以上使っており、2002年から2007年までの5年間に教科書代が40%値上がりしているという話が紹介されています。ワタシも以前、アメリカの学生は教科書を中古で買うのが当たり前という話を読んで驚いたものですが、こうした背景があったわけです。
Flat World Knowledge の創業者であり社長のエリック・フランクのインタビューを読むと(このインタビューにも sustainable という単語が複数回登場します)、彼と創業者、CEO のジェフ・シェルスタッドの二人は教科書業界に長年身を置いていたが、前述の問題などにより教科書のために教員も学生も教科書の作者もハッピーでない状況に嫌気がさし、それを打破すべく起業に至ったとのことです。
当時二人の創業者はオープンエデュケーション運動についての知識はあまりなかったそうですが、ワイリーに相談をもちかけたところ、「面白いね、使っている言葉が違うだけで君らの話は私の考えとすごく近い」と言われ、教科書のオンライン提供とオープン化が問題の現実的な解決策になると思い至ります。
少し前にオンライン論文誌 First Monday にワイリーとジョン・レヴィ・ヒルトン3世による A sustainable future for open textbooks? The Flat World Knowledge story という論文が掲載されているので、その内容を簡単に紹介したいと思います。
価格の高騰、改訂のスパンが長いため最新情報を取り込めていないという批判、教材の固定化、陳腐化といった現在の教科書を巡る問題に対し、Flat World Knowledge が教科書の電子書籍化(ただし Amazon Kindle のような専用端末でなく、閲覧環境はウェブブラウザになります)、オープン化を実現しようとしているのは前述の通りですが、教科書のオンライン提供自体は、Flat World Knowledge が始めたものではありません。例えばジミー・ウェールズが「教育課程をフリーに!」とぶちあげて始まった Wikipedia の教科書版である Wikibooks などの非営利の試みがあります。
しかし、現実には Wikibooks は Wikipedia のようには成功していません。これは教科書が百科事典ほどモジュール化に適していないという構造上の問題が大きいですが、たとえ教科書が完成したとしてもピアレビューを経ておらず、また専門家の手により書かれたわけでもない教科書の導入にしり込みする教員がいてもおかしくありません。
そこでワイリーらが提示するのは、無料の電子教科書に商用の補助教材を組み合わせたモデルで、これはエリック・S・レイモンドが「魔法のおなべ」で紹介していたオープンソースのビジネスモデルの一つである「カミソリを配って、カミソリの刃を売れ」(正確には、レイモンドは「レシピをまいて、レストランを開け」と言い換えています)の応用です。ワイリーらはオープンソースのビジネスモデルを教科書分野に適用することに活路を見出しているわけです。
出版社(Flat World Knowledge)は教科書をオンラインで無料提供しますが、それは電子化による流通コストの削減により可能になります。デジタル化により教科書内容のマルチメディア対応による強化が可能になりますし、その内容は常に最新を保てます。
その教科書のライセンスは、クリエイティブコモンズの表示-非営利-継承(CC by-nc-sa)なので、教員は教科書の内容を自由に「リミックス」可能で、学生や講義内容にあわせた章立ての入れ替えや削除を行うことができます。
学生にとっては、教科書がオンラインで無料提供されることが一番のメリットですが、同時に紙版、PDF版、オーディオ版の選択肢も(有料で)与えることで、柔軟なアクセスも損なわれません。
Flat World Knowledge の教科書はこれまで通り専門家により執筆されますが、教科書を無料提供したのではその著者にお金が回らないように一見思えます。しかし、もはや学生は中古の教科書を買ったり、他の学生から教科書をコピーしたりする必要がなくなるので、Flat World Knowledge の売り上げの20%を著者に渡すモデルは、従来の15%の印税よりもむしろ著者の実入りは良くなると主張しています。
このように出版社、教員、学生、著者のいずれにも利益をもたらすことが sustainable なオープンエデュケーションのビジネスモデルのあるべき姿だとワイリーは考えているわけです。
電子書籍とクリエイティブコモンズとオープンソースビジネスの組み合わせ自体、そのそれぞれに関心を持つ人間としてはとても興味深く、それだけで応援したくなります。しかし、一方で少し話がうますぎるというか(ヘンな表現になりますが)筋が良すぎる気もします。
ワイリーらの論文を見ても分かりますが、たとえ中身がオンラインで無料提供されていても、少なからぬ学生は紙の教科書を所有したがるのが現状です(読書用端末を対象にした National Association of College Stores の調査結果を見るとその傾向はよりはっきり出ています)。そして、その紙版こそが Flat World Knowledge の主な収入源であることを考えると痛し痒しな印象は拭えません。
それでも sustainable なオープンエデュケーションを模索するワイリーらの活動には敬意を払いたいですし、教科書という、ともすれば退屈に思える分野にもスタートアップが生まれることを羨ましくも思います。
yomoyomoの「情報共有の未来」
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