たとえブロゴスフィアを失っても
2008年11月19日
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今回もニコラス・G・カー先生のブログを取り上げます。といってもクラウド・コンピューティング方面ではなく、「誰がブロゴスフィアを殺したのか(Who killed the blogosphere?)」と刺激的なタイトルの冠されたエントリです。
カーの文章は、Economist に掲載された「Oh, grow up」という記事を受けたもので、この記事は Weblogs, Inc. の AOL への売却により巨万の富を得た、自身も有名ブロガーであるジェイソン・カラカニス(Jason Calacanis)が、今夏ブログを止めて、メルマガという旧式のやり方に配信方式を変えた話から始まります。
カラカニス(そういえば彼はちょうど今月 Infinity Ventures Summit のために来日してますね)は、ブログがあまりにも巨大になり、個人的な感覚を失ってしまったと言います。そのために注目を集めるのが難しくなり、それでもそれを求めると必然的にブログの論調が攻撃的になり、結果敵意に満ちて偏向していると嘆いています。
Economist の記事はカラカニスの主張からさらに大きな潮流を導き出します。つまり、ブログがかつての姿を失ったのは、それはブログがメインストリームの仲間入りをしたからで、事実ブログはどんどん既存の主流メディアの形に近づいている。
さて Economist の記事を踏まえ、カーは「かつては目新しく新鮮だったブログも今ではありふれていて退屈なものになり、中年の危機(midlife crisis)を迎えているようだ」と切り出します。
「今でもたくさんのブログがあり、中にはとても優れたブログもいっぱいあるが、今なお一つの『ブロゴスフィア』なるものがあると言い張るのは難しいだろう」というカーの主張はその通りでしょう。ブログに関し、裾野の分極化と有名どころの主流メディア化の両方が進んでいるのは間違いなさそうです。
カーは、「ブログ」という言葉には常に二つの異なる定義があったと説きます。一つは、オンラインのコンテンツ管理、公開システムという技術的な定義。そしてもう一つは、個人の日記であったり、リンクの見せ方であったり、「ブログ」という言葉が暗に示唆するライティングスタイルです。かつて「ブログ」という言葉を語る場合、このスタイルのほうに重きがあったのに、現在ではそのスタイルが失われ、「コンテンツ公開プラットフォーム」という点でしか共通点が見出せなくなったのが、ブロゴスフィアという言葉の無意味化につながったとカーは見ています。
ワタシが Economist の記事とカーのエントリを読んだときに想起したのは、山形浩生が今から10年以上前に書いた「インターネットの中年化」です。カーも山形も「中年」という言葉を用いているだけでなく(カーが指摘する、人気ブログのトップページのファイルサイズが軒並み肥大化している現象は「ブログのメタボ化」とでも言えるでしょうか)、アマチュア無線を引き合いに出しているところも共通します。
見えてくるのは、現在の他の媒体とほとんど変わらぬ、どこかで見たような風景である。かつての何が飛び出すかわからないワクワクするような時代は終わった。この先続く道は、穏やかな、安定した、だが退屈な既知の道である。だからといって、それを避けろというわけではまったくないのだけれど。
ワタシ自身5年前に『ウェブログ・ハンドブック』の翻訳を行なったとき、もっと多くの人たちがブログを始めればと思っていましたし、ヘンなエリート意識と関係なくブログが当たり前の存在になってほしいと願っていました。そうした意味で現状は当時の希望が達成されたと言えるでしょう。ただ人間は贅沢なもので、そうなったらそうなったでエッジが失われてしまった現状を惜しく思う気持ちも正直あります。
ただ米国と日本ではその速度や方向性が異なるので、米国の有名ブログがどのような展開を迎えているか知っておくのは有意義でしょう。
Economist の記事は政治ブログ分野における HuffingtonPost と FreeRepublic を例に挙げていますが、有名ブログのニュースメディア化、そして既存のネットニュースサイトのブログの取り込みによる両者の相似化は技術系ブログ、メディアでも起こっていることで、ブログ側の代表格である TechCrunch のマイケル・アーリントンの認識はシビアです。
競争する気持ちに欠ける大型ブログは、巨大メディア企業に身売りすることになるだろう。競争力のある大型ブログで先見の明のあるところは、小さなブログを買収して話題別のグループに分けることを始めるだろう。誰がやるにせよ、いちばん面白くて並外れた意見を集めたネットワークを作ったところが最後には「勝つ」。そうでなければ全員が勝つ、ただし違ったレベルで。
こうしてみるとブログは趣味の楽しみどころか、過酷な競争社会ですが、複数のプロのライターを抱える編集体制に留まらず、本家を補完する話題を扱うブログの開設や買収によるブログネットワーク化、(ビデオ)ポッドキャストの導入によるマルチメディア化、各国版の展開など大手ブログの取り組みは大体共通しています(逆に配下のブログを切り離す判断をした ReadWriteWeb のような例外もありますが)。
前にも触れたことがありますが、大手ブログのネットワーク化、ニュースメディア化の結果、Techmeme Leaderboard や Technorati Popular を見ても、上位に入るのは大手ブログネットワークに属するプロ化したブログと、CNET News や New York Times といった既存のニュースサイトのウェブ版ばかりで、個人によるブログを見つけるほうが難しくなっています。
ひるがえって日本では、技術系ニュースサイトのブログの取り込みはありますが(この WIRED VISION ブログもその一つでしょう)、大手ブログのネットワーク化、企業による買収によるプロ化となるとまだまだのようで、その分個人ブログが存在感を保っているように見えます。
ただ昨年言われた「ブログ限界論」とやらもこの「ブログの中年化」と同趣旨とは言えないにしろ無関係ではないでしょうし、ソーシャルブックマークやミニブログにブログがかつて担っていたクリッピングの機能が移り、個人のパブリッシュよりソーシャルネットワークの活用にトレンドは移ってしまった現状があります。
そうしたトレンドの日米比較などの突っ込んだ話は、本 WIRED VISION ブログの連載でもおなじみ濱野智史さんの『アーキテクチャの生態系』を読むことをお勧めしますが、それはともかくワタシ自身ブログなんて言われるようになる前からずっと個人サイトを運営しており、形式は変われどもそれを続けることにしか能がないからやり続けるより仕方がない、と現実に中年前期にさしかかった当方は嘆息してしまうわけです。
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