インターネットによって「中抜き」は起こったか?
2008年1月29日
(これまでの 歌田明弘の「ネットと広告経済のの行方」はこちら)
90年代半ばにインターネットが急速に浸透していったとき、インターネットによって産業構造が変わるとか、情報や流通のありかたが変わる、あるいは社会構造が変わるなどと言われた。こうした見方は、たしかに妥当なものだった。
さらにインターネットの登場によって、「中抜き」が起きるということもさかんに言われた。これについては、はたして当たっていただろうか。
「中抜き」はたしかにある面では起こっている。
大手のスーパーなどは農家などと直接契約して仕入れ、仲卸しを飛ばしてコストダウンをはかっている。たとえば、築地市場は移転話が持ち上がり、移転先の豊洲の土壌汚染が取り上げられたりしているが、土壌汚染の問題以前に、市場の仲卸し業者は、移転する経済的余裕がないという。仲卸し業者の「中抜き」が起こったからだ。
生産者との直接交渉では、もちろんネットも活躍している。消費者に近いところにいる大手スーパーなどの小売りが、消費者がいま何を求めているかについてリアルタイムの情報を流すことで、スピード感のある商品の供給が行なわれる。リアルな社会の「中抜き」はこのように進行している。
しかし、ネットを見ると、そこには「中抜き」とは正反対の現象も起こっている。「中抜き」どころか、巨大な「中」が出現している。
まず思い浮かぶのは、楽天やアマゾンといった大手ネット小売りだ。
インターネットを使えば、地方の生産者も全国に売ることができる。とはいえ、サイトを作れば、たちまち売れるというわけではなかった。小売りが集積した巨大なモール・サイトの傘下に入ることに大きなメリットが感じられ、楽天のような会社が成長していった。
また出版社も、購読者に本をネットで直接売ることができ、実際そうしているところも増えてきた。とはいえ、多くの購読者は個々の出版社のサイトではなくて、アマゾンのようなオンライン書店で購入することのほうがずっと多い。
分散しているサイトでは消費者を集めることはできず、メーカーや末端の小売りを集めたサイトが伸びていった。
こうしたことは商品についてだけ言えるわけではない。動画はユーチューブやニコニコ動画、テキストはブログ・サービスやMixi、あるいはケータイ小説の「魔法のiランド」のようなところがコンテンツの配信に当たって力を持つ、というのがこの10数年のウェブの進化によって起こったことだった。
「アグリゲーション(集積)したところが強い」という言い方によって、現在、語られているのはまさにこうしたことだ。「アグリゲーションしたところが強い」というのは、「中」が強いということにほかならない。
グーグルもまた、そうした「巨大な『中』」の筆頭にあげられる存在だ。グーグルは、検索というツールでネットの一時代を築いたが、検索はひとつのツールというにはあまりに強力で、ナビゲーション、つまり「中」をとりもつネットのプラットホームとなった。
昨年、来日したグーグルの幹部は、自分たちのやっていることは「電話の交換局と同じだ」と説明していた。情報をつないでいるということを言いたかったようだが、明らかにこの比喩は控えめすぎる。電話をかける人間は、誰につながりたいかわかっている。電話の交換局は、電話のかけ手の意志に従って受動的につないでいるにすぎない。
グーグルのやっていることはそれとは違う。ユーザーが漠然と入力したキーワードに応じて、つながる相手のリストを提示している。能動的であり積極的な行為なのだが、グーグルとしては、意思を持ってリストを提示しているわけではない。プログラムされた機械が自動的にリストを提示しているにすぎない。電話の交換局とは明らかに違うが、自分たちが意図してリストを提示しているのではなく、自動的に接続していることから、「電話の交換局がやっていることと同じ」という感覚を、グーグル内部の人間が持ったとしても不思議ではない。
グーグルのパワーは、自動的につなぐ行為、つまり「中であること」によって生まれている。グーグルは、インターネットでは中抜きどころか、中こそが強い、というありようの象徴的な存在である。
しかし、その強さはどこから生まれたのだろうか。少しそうしたことを考えてみたい。
歌田明弘の「ネットと広告経済の行方」
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