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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第十五回 服装IV

2007年8月22日

(白田秀彰の「網言録」第十四回より続く)

さて、話を戻す。すでにシャツは、その色やデザインから上着としての地位を獲得して、カジュアルな服として位置付けられている。しかし、その起源が下着であったことを忘れてはならない。そうであるなら、目上の人や女性の前でシャツ一枚になることが失礼にあたる、ということが自然に理解できるだろう。もし、どうしてもジャケットを脱ぎたいのであれば、ジャケットと同様にウールで作られていたウェストコート(ヴェスト)を着用している限りでは脱いでもよかった。そう考えると、ヴェスト付のスリー・ピース・スーツが古典的で正式なスーツである理由もまた、自然に理解できる。

さらに、現代のカジュアルな服の大部分を占めるTシャツについても述べておこう。Tシャツはもともと軍用の下着だ。第一次世界大戦から第二次世界大戦のころ、熱帯地域で作戦行動する兵士たちは、ウールのジャケットなんて暑くて着ていられなかった。そこで、厚手のコットンシャツを上着代わりに着用していたのだ。そうするうちに、シャツに、ポケットやエポレット(肩章)といった上着の要素である付属品が付くようになった。この段階で、上着化が完了したとみなすことができる[1]。今では ほとんど廃れた存在だが、夏場に着用するシャツ・ジャケットなる中間的な服が存在する。これは、上着に分類されるものだ。私も、旧日本海軍の防暑服として作られた物のレプリカを一枚持っている。このように、シャツがジャケット化すると、やはりその下着が必要になる。そこで、コットンの薄手のセーターが発明された。これがTシャツの起源だ。

それではまた、セーターとは何なのか。もともとは、漁師の防寒衣であったと言われている。網を編む技術を持っていた漁師達は、厳寒の海上で体温を守るための必要から、厚手のセーターを自ら編み着用していた。それは労働着であるがゆえ、動きやすいものだった。やがて、19世紀末頃から上流階級向けの学校で開始されたスポーツ教育のための運動着として採用されるようになり、市民生活に定着した。従って、その位置付けは労働着であるか運動着ということになる。まあ、トレーナーとかジャージのようなものだ。

さて、ここまでの説明を理解していただければ、現代で言うところの「カジュアルな服」は、いずれも下着あるいは労働着であることがわかるだろう。そして、ジャケット・スタイルのみが正しい意味での「服」の路線に沿っていることになる。

こうして、礼服の話と服のそれぞれの出自について理解するならば、大学教授のコスプレイヤーとして知られる私は、西洋服飾文化に存在してきた「礼」と「本義」を守っていることになる。で、翻って現代の学生さんたちの格好はどうなっているのか。下着や肌を露出して、かつての貴族趣味よろしく様々な素材等で飾り立てられた、下着や労働着や運動着を着ていることになる。

おお!これこそ現代の教室事情を象徴しているではないか。あらゆる権威も権力も剥奪された下僕たる大学教員である私は、スーツを着用して学生達に対して礼を尽くす。一方、階段教室の高みから教員を見下ろす現代の貴族である学生諸君は、王族よろしく、ありとあらゆる規範を破ったファッショナブルな服装で、肉体の快適さ安楽さを追及し、かつ着飾る喜びを満たしている。そこには、諸君らを「見る者」たちへの敬意も配慮も存在していない。

学生諸君には、服装を「ファッション」として捉える視点しか与えられなかった。第二次世界大戦と1960年代の若者文化における意識革命で、それまで存在してた服飾に関する規範は全て破壊され、その時代以降の大人たちは、服飾に関する規範の知識をほとんど持たなかった。ファッションの専門家たちは、流行によって拡大する服飾市場をますます拡大するために、服飾に存在していたさまざまな規範を否定し、自由で変化に富んだ服装を誉めそやした。そうした世代の子供達である学生諸君らが、自己満足のために、あるいは消費するファッションのために、服を選択する以外の視点を持ち得なかったことは、止むを得ない。

もし、学生諸君に私に対する敬意があるのなら、仮に私がポロシャツ等で教壇に立っていたとしても、諸君らはジャケットを着用する必要がある。ジャケットの下には当然にシャツが必要だ。ネクタイの要否については、また後に触れよう。そして、教壇から諸君らを眺める私の視覚的快楽を満たすために、教室内の秩序を視覚的に象徴するために、制服が指定されることもまた自然であることが理解されるだろう。学校に制服が存在する複数の理由のうちの一つは、こうした考え方を背景にしているのだ。

「ここはグラウンドですか?」「キャバクラのバイトは夕方からにしてください」「ここはハワイのプールサイドじゃないんですよ」「自宅じゃないんだから寝間着はやめなさい」と言いたくなるような教室の惨状が、勉強をしよう学問へ向かおうという雰囲気を著しく破壊していると私は考えている。いや、もとより大学は、もはや勉強や学問をする場ではなくなっているのかもしれないが。逆に、もし学校が『ハリーポッター』のホグワーツ魔法魔術学校のような制服を着用した規律ある学生達に満たされていたら、私は萌え死ぬ[2]。...いや、いっそう励んで仕事に情熱を萌やすことだろう。

* * * * *

[1] ポケットは外から手を入れることを想定しているわけだから、下着であるシャツの胸にポケットがついているのはおかしい。従って、ドレスシャツにはポケットが無いのが正しいことになる。現在のドレスシャツにポケットがついているのは、第二次世界大戦あたりから、物資不足のためウェストコートを着なくなって、ジャケット内側のポケットが不足したため、アメリカ人がシャツにポケットをつけるようになったからだ。

このように考えると、ポケットにいろんなものを入れてパンパンにしている人にこそ、ウェストコートのあるスリー・ピース・スーツを推薦したい。ウール生地で作られるウェストコートのポケットは、薄い生地で作られるシャツのポケットに比べてしっかりしているし、ポケットを四つまで作ることができるので、その収納力はかなりのものになる。スーツの収納力に関する実証実験としては、 ここ を参照のこと。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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