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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第十六回 服装V

2007年8月29日

(白田秀彰の「網言録」第十五回より続く)

私が教室内の秩序について、また視覚的な美観についてこだわるのには、次のような理由がある。どんなDQNな学生でも、B-Boyであっても、一流ホテルのロビーではタバコの灰を絨毯の上に捨てないだろうし、床にツバを吐かないだろう。いや...吐くかな。まあ、たぶん場の雰囲気に圧倒されて、いつものような傍若無人さは鳴りを潜めるだろう。日頃Tシャツとジーンズで粋がっているロッカーも、「ブラックタイ」指定のパーティに招待されたら、自慢の細身の黒スーツに極細の黒いネクタイを着用して、会場に行くだろう。そして、会場に到着して初めて「ブラックタイ」が意味するものが、ディナージャケット(タキシード)であることを知り、恥ずかしく気まずくパーティを過ごすだろう。いや...気がつかないまま「俺ってイケてる!」と思っているかもしれないね。

これらの例で言いたいことは、集団の中で「浮く」ということに対して、私達は恐怖感を持っているということだ。周りの人々の服装や振舞が同調圧力として作用するのだ。そして、自己の美学も主体性も持たないような人こそが、そうした視覚的な同調圧力にとても弱いのだ。ある程度の社会の大勢が、正統な服を着用するようになれば、消極的かつ自堕落な理由で規範から逸脱する種類の人は、おそらく正統な服の規範の中に留まる。そのこと自体が服装に関する社会的規範の再帰的な強化に貢献するのだ。そして、以前に述べたように、スーツあるいはジャケットは、近代人の身体を拘束する拘束衣だ。それを着用して着崩さないためには、正しい姿勢や振舞を維持することが要求される。こうして、目に見える規範の顕在によって、その他の種類の規範もまた維持される。そのように私は考えている。... たぶん読者からは批判を受けるだろうが。

もう一つ別の例を挙げよう。読者は、「長崎オランダ村」や「倉敷チボリ公園」に行って外国の雰囲気を味わえただろうか。「明治村」や「大正村」に行って時間旅行気分を味わえただろうか。金沢や京都に行って風情を堪能できただろうか。もちろん、「そうだ」と答える人が大多数だと私も思う。とはいえ、私はそうした観光地には凡そがっかりさせられる。なぜなら「視界の大部分に入っている観光客の服装がみんな日常のまんま」だからだ。目の前を、スポーツ・ブランドのTシャツやトレーナーに、ジーンズやスニーカーを履いた家族連れがゾロゾロと歩いているのでは、景観も雰囲気もあったものではない。逆に、仮に京都を観光したとき、町のほとんどすべての人が和服を着ていたら、観光地としての京都の格は現在よりも遥かに高まると私は思う。建築物のみならず、そこにいる人の服装や振舞こそが、景観に対して強く影響を与えるのだ。

上記のように考えれば、そうした服装や振舞が及ぼす景観への影響について深く配慮している空間に、場違いな服装や振舞で入ることが、いかに傍若無人で失礼なことであるかも理解していただけるのではないかと思う。第二次世界大戦後、運動着や作業着のまま世界中を旅して、世界中の人々の服装文化に悪影響を与えたのが、アメリカ人であることは良く知られた話だ。ヨーロッパでは、ジャケットも着用せずレストランに入ってくるアメリカ人を「田舎者」だと嫌ったという話を聞いている。その後日本人が、現在では韓国人や中国人がそうした無知と傍若無人さで悪評を得ている。

もはや現在では、服装のカジュアル化はどこの国においても止めようはなく、我々は自由に、好きな場所で、誰に眉を顰められようと、好きな服を着てよいと信じている。ファッション業界の人々は、次から次へと新しい流行すなわち規範の破壊を提案し、可能な限り安いコストの洋服を高い値段で消費者に売りつけようと試みている。その標的は、規範について何も知らず、「流行」という社会的圧力にことのほか弱い若者達だ。そうした戦略は、従来存在していた服飾文化を破壊しながら進行する商業主義に他ならない。

服装に関する正統文化を復興維持することは、社会全体の秩序を復興維持することに、視覚的かつ美観的に大きく貢献するものと私は信じる。しかし、そのような私の立場に対して、自由という観点から批判があるものと思う。当然だろう。だから繰り返そう。

秩序への偏執と逸脱への寛容の均衡が、「近代」と呼ばれる体系を構築したのだ。だからみんな「近代に萌えてみないか」と、私は訴えたい。

暴力や法律で強制するのではなく、社会を構成している我々の審美能力に訴えて、私は規範を復興維持したい。そこには、主体的に逸脱を選択する人々がいることは当然であり、その自由も認めるべきだ。しかし、逸脱もまた審美的に規範の中に調和させられうるはずだ。「粋」とは、規範と調和しうる逸脱を指す感性であると私は考える。服装に頓着しない一般の人々に正統文化という規範を。服装にこだわる人々には「粋」の精神を。それが私の服装に関する願いだ。

あ、こんなに長く書いたのに、具体的に「こうすればいいよ」の提案をしてなかった。ごめんなさい。そのうち、個別の話をする中で触れたいと思います。ほんとうにごめんなさいね。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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