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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第九回 立居振舞 III

2007年7月11日

(白田秀彰の「網言録」第八回より続く)

さて、ここでさらに体育会系学生に批判の矛先を向けることで、さらに自らを危険に追い込んでみたいと思います。嘘です。怖くて涙が出てきてチビりそうです。

ここまで述べてきた姿勢の悪さや、歩行の異常さは、学校という収容所における強制作業や、各種メディアを受動的に受容する型の娯楽に大半の時間を費やしてきた「普通」の若者が、身体を適切に保持するのに必要な筋肉を発達させえなかったことや、そもそも自らの身体を合目的的に操作する訓練を受けていないことに原因があるかもしれない。とすれば、日頃から各種スポーツに勤しみ、勝利するのために肉体の鍛錬と精神の鍛錬を怠らない体育会系の学生であれば、ビシッと背筋が通り、彼らの立居振舞はまさに指の先まで神経の行き届いたものになっているはず... なのだが、何故だかそうなっていないのだ。

私は運動場に行くことがほとんどないので、それぞれの専門であるスポーツ中の彼らの立居振舞がどのようなものかはよく知らないが、教室でどんな様子であるかについては知ることができる。基本的に彼らはいつもダルそうに振舞う。練習で疲れているのだろう。あるいは私の講義がとても嫌いなのだろうと思う。歩き方も、体を大きく左右に振ってノシノシと歩く感じだ。大学生としての体育会系の学生の様子は、そうした状況くらいしか知らないのだが、それよりも甚だしい例として、帰宅中の電車で見かける高校生たちを論いたい。

私が帰宅する電車には、多摩地域の複数の高校の生徒たちが乗車してくる。で、それら一般の高校生についていろいろ言いたいこともあるが、それは別の機会に取り上げることとする。ここでは、その携えているバッグから、体育系部活動を終えて帰宅する高校生であることが明らかな男子生徒について語りたい。

まず、いつの時代の高校生もそうなんだろうが、彼らは埃っぽく汗っぽく、端的にいえばなんとなく汚い。でも、それは仕方がない。高校生時代は、人生においてもっとも活動的で精力的な時期なのだから、そうなってしまうのはやむをえない。これは、彼らを批判する点としては当たらない。さて、そうした汚い印象を与える彼らは、スポーツをしているので体は大柄であり、野性的力感にあふれている。彼らの顔色は日焼けして赤銅色であり、髪型は、最近丸坊主が比較的流行しているようで、坊主頭がおおい。

そうした様子だけでも、彼らからは、若さが発散する野性的力感と危険さが感じられるのに、それらを知性や理性で制御している感じがまったくない。シャツの胸元を大きくはだけ、はだけた胸元にだらしなくネクタイをぶら下げ、あらん限り腰下にベルト位置を下げ、太いズボンのすそを踏んだ姿は、もうしわけないが「ギャング」の印象を与える。そうした彼らは、思いっきり足を広げ座席を占め、後から乗車した乗客たちに席を作る気配もない。彼らは、練習でとても疲れているのだろう。だらしなく座って大口を開けて眠っている生徒もいる。彼らは、厳しい練習から解放されておおらかな気分になっているのだろう。周りの乗客を憚らず大声で談笑し、菓子パンを食べたり、甘い飲み物を飲んで楽しそうだ。

そうした、おおらかで楽しそうな男子生徒の姿を好ましく思う人もいるかとは思うが、私は、正直に言えば不愉快に思う。忘れてはならない点がある。かれらはスポーツマンである以前に、高校生であることがタテマエになっているということだ[1]。彼らの電車内での傍若無人かつ威圧的な振舞いを見ていると、飼い主の足元でおとなしく控えている盲導犬のほうが知性的で理性的にみえる。私は、上記のような生徒が容認され、優遇されるような高校には自分の子弟を行かせたくない。新入生を募集する目的で、いくら洗練された美辞麗句を並べた広告を電車内に掲げても、当の学生自身が否定的な印象を与える「生きた広告」として機能していることを、学校関係者はよくよく理解していただきたいものだ。

私の考えでは、スポーツマンたちは姿勢を維持し、美しく立居振舞うための筋力と運動神経を備えているはずであり、また、監督やコーチたちの指導に彼らが従順であるという点で、社会的な規範やマナーについての強制的な指導が、一般の生徒よりも行き届きやすい人たちであるはずである。ところが、実際には彼らは、普通の人々よりも立居振舞が洗練されているわけではなく、その筋力と運動神経が威圧感を与えるほうに作用している。してみると、立居振舞の美しさと筋力や運動神経は直接関係しているわけではないようだ。そして、もっとも立居振舞の美しさについて期待しうる彼らが、上記のような状況であるならば、もはや現代において立居振舞を美しくする可能性は僅少だといわざるをえない。

でも、不思議だ。江戸の末から明治期にかけて、西洋的近代的身体操作の本家たる西洋人たちは、日本人(に限らない話だが)の健康で俊敏な肉体、控えめで穏やかな性格、礼儀正しさについて賞賛していたらしい記述を読んだことがたびたびある。かつては、戦士の操身法としての剣道や柔道等もわが国において盛んであったはずである。戦前の人々の写真を見る限りでは、みな小柄な体ながらスッと自然に立っている様子がわかる。そうした人たちが現在の高齢者層を形成している。今のように、身体を正しく操作することができず、フラフラチマチマズルズルしている私たちが高齢者になったとき、どんな悲惨な事態が生じるか考えただけでもゾッとする。

* * * * *

[1] 最近、高校で野球をもっぱらとしている学生に対する、学費免除や金銭提供などが問題となっている。全国放送される大会において所属学校の知名度を上げるために、彼らは学校経営陣から特別に選抜され学校に在籍している。そうしたあり方がアマチュアリズムの観点からみて問題がある、という見解だ。私は、現実にそのような状況があるのなら、正面から「青年プロ野球リーグ」を新設したらどうだろうか、と思う。かなり高レベルの試合が楽しめるのではないかと思う。

あるいは、そうした特別な存在である青年たちが、あくまで「高校生」であることを重視するのであれば、彼らが学業もそこそこに練習に精を出すことのほうを問題視すべきであると思う。そこで提案であるが、「高校野球」の主宰者は、出場選手に対して、標準的な高校生の学力を判定する試験を課したらどうだろうか。もちろん、その問題を新聞紙上で公開することで、それが標準的な高校生の学力を判定するのに妥当であることを、一般の市民の検証に委ねるのだ。こうして、出場している選手が「高校生」であることを実質的に担保することで「高校野球」の実質を維持するのである。そうであるならば、彼らがプロフェッショナルであるのか、アマチュアであるのか、は二次的な問題であるといえるのではないか。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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