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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第八回 立居振舞 II

2007年7月 4日

(白田秀彰の「網言録」第7回より続く)

ここで脱線する。

どこかで読んだ本の記述を紹介したい。どの本だか忘れてしまったので、根拠薄弱な話であることをお詫びする。その内容は、どのような高等動物であっても、穏やかな気候のもと、外敵やら天敵やらがいない理想的な環境で進化してゆくと、体長1メートル程度で四肢が短く突起の少ない丸っこい形状になるというものだった。その代表例として、まさにそうしたデザインである巨大ネズミ「カピバラ」が挙げられる。逆に、厳しい環境やら強力な捕食者やらと闘わなければならない高等動物は、次第に体のある部分が突出した進化を示することになるんだそうだ。それが動物の驚異的な多様性を生んでいるらしい。例えば長い足や長い首や大きな角などは、なるだけ生物の生命維持部分であるところの内臓を捕食者の攻撃から遠いところに置きつつ、逆に攻撃しうるように作られているというのだ。代表例としては、「ヘラジカ」などが挙げられるだろう。

で、また現代の学生についてなのだが、どうも最近の学生はカピバラ化してきているように思えてならない。私の世代は、栄養状態の改善により、年々若者の身長が伸びて足が長くなっていた時代の末期にあたる。ところが、近年は身長の伸びが落ち着く一方で、体重が増加し、足が短くなりつつあるという話を聞いている。さらに学生全体を見渡すと、なんとなく小太りというか丸っこい学生が増えているように思えるのだ。それはそれとして「かわいい」という評価ができるかもしれないが、そうした変化は「穏やかな気候のもと、外敵やら天敵やらがいない理想的な環境」でヌクヌクと育った証拠であるように思う[1]。

ここで、先ほどの姿勢やら歩行やらの話とカピバラ化の話を結合すると、このようになる。最近の学生達を見ていると、カピバラのような小太りの丸っこい人間が、猫背でフラフラと歩き、ぐったりと座っている姿を見せられることになりがちであるということだ。数年前くらいに、そのような、気合の抜けた、美しくない姿を見せられることについて、気心の知れたゼミ生に苦言を言ったことがある。これについて彼は、「そういうのが美しくない、とか余計なお世話です。そういう美しい身体とか正しい身のこなしなんていうものは、近代国家や近代軍が設定した制度であって、それに対して従順であることは奴隷的精神ですよ。(要旨)」みたいな難しい話をしてくれた。ありがとう。

たとえば、「(暗黒)舞踏」は、西洋近代の美の観念を基礎として制度化されたクラシックなダンスに対して、「別の美」あるいは制度化されていない人間本来の身体の動きを探求し表現するものとして登場し、発展しつつある(んですよね?)。そうした舞踏をとおして、自由で根源的な人間の身体を発見し、近代に対する抵抗を表現し、近代の抑圧的な制度からの解放を獲得する価値観があることは理解できる。しかしながら、私は、美的感性が乏しいので舞踏をわざわざ見に行きたいとは思わない。私の聞いたところでは「舞踏を見た子供が脅えて泣き出した」という話もある。子供でなくても私だってあのような踊り手が迫ってきたら、たぶん逃げ出してしまう。 舞踏家のみなさん、ごめんなさい。私の美的感性の乏しさが悪いのです。

上記のような立場から提唱される「制度化された身体が悪で、自由な身体こそが美しいのです」という価値観のもと、平和な環境で人がカピバラ化し、それぞれが好きなようにフラフラチマチマと歩いて何が悪いのか! といわれると、「いいえ、悪くないです」としか言いようがない。そこで私は、近年強力な社会的圧力として有効となっている「健康」を持ち出す。「良い姿勢は、体に対して自然であって、健康にもいいですし、肩こりも腰痛も治りますよ」というものだ。これなら実用的価値が医学的に立証できるから、カピバラ化した学生達に近代的身体操作を強制する説得的根拠となりうるだろう。

ところが、これもダメらしい。衛生や健康や健全な肉体という概念は、近代国家によって設定された制度であって、傷病国民の面倒を見なければならない国家の負担を国民の自発的負担において軽減し、戦争に強壮な国民を動員するための準備政策であり、それは典型的にはラジオ体操の強制や、各種スポーツ大会や団体の創設などに現れているのだ、というような話を聞いたことがある。関係する本など読んでみると、確かにそんな感じだし、戦前のファシスト国家においては、また、かつてのソビエト国家においては、「健全なスポーツ」がやたらと奨励されていて、それが組織化されていたことがわかる。それゆえ、衛生や健康や健全さを奨励すべき価値として称揚すること自体が、国家主義的態度ということになるらしいのだ。

仮に私が自分の学生に対して、「良い姿勢を維持せよ!」「美しく規律正しく歩け!」などと、どこかの鬼軍曹のような指導をしたならば、きっと周りから「ファシスト白田」という渾名を頂くことになるだろう。何故だか全体主義国家の指導者というものは、ビシッと背筋のとおった軍隊や国民に一糸乱れぬパレードをさせるのが好きだ。そういう否定的なイメージがあるゆえに、「良い姿勢」や「正しい歩行」を指導することが教育現場において忌避されている。そういうわけで、私は「みんな姿勢を良くした方がいいよ...」と心の中で*つぶやくだけ*で粛々と日々を送っているわけだ。

でもね。単純に「良い姿勢」は綺麗で、「正しい歩行」は美しくないですか? モデルさんたちや俳優さんたちの身のこなしは美しくないですか? 「美しい」という感性を、ある行為を奨励する理由にすることは、そんなに忌避されるべきことなんだろうか? このあたりが、実は前回の『美と規範』の話とも繋がってくる。「真」と「善」に関するあらゆる思考や判断が混迷している中、感性に直接作用する「美」が最後の評価基準となりうると私は思っているのだが、それですらダメになっているということを前回示したわけだ。

*  *  *  *  *

[1] 人間の身長は1m以上あるじゃないか、という意見があるだろう。でも、身長から足の長さを除外してみてほしい。おおよそ1mくらいにならないだろうか。すなわちそれが通常の四足動物の「体長」である。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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