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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第七回 立居振舞 I

2007年6月27日

前々回の一連の記事で、美大生に喧嘩を売った私ではありますが、まだ元気に外を歩けています。そこで今回は、一般学生に喧嘩を売って、さらに自らを危険に追い込んでみたいと思います。嘘です。怖くてガクガクブルブルしています。

私自身も含めての批判であると理解していただきたいのだが、現代人はとても姿勢が悪い。立ち姿もおかしいが、座った姿もなんだか捻じれている。もちろん、歩き姿も崩壊している。

立って話している大学生を見ていると、彼らは猫背でいつも左右にフラフラと揺れている。そして、彼らはおおよそ数分間で何かに寄りかかるか、その場にヘタリと座り込むかしてしまう。長時間立てなくなっているのだ。講義中に着席している大学生の姿は、まるで皿に立てた豆腐がグンニャリと崩れるか、短くなった蝋燭が炎の熱で溶けていくかのようで、数分間でベッタリと机の上に伸びてしまうか、あるいはまるで寝るかのように座席の上にズルズルとずり落ちてしまう。こうした様子を見てると、彼らが、自らの体重を長時間支えられなくなっていることが明らかである。

さらに、その姿勢の悪さの故に、歩行が不安定でフラフラしている。あまけに歩幅が小さく、足を引きずって歩くのでチマチマした歩き方になっている。そうしたフラフラチマチマした歩行であるにも関わらず、携帯電話の小さな画面をジッと見つめて猫背で歩いているのだから、その歩行はまるで病人が風に吹かれて彷徨うかのようである。また、女子学生の大半は、サイズの合わない安物のヒール付の靴をズルズルと引きずるように履いている。それゆえ、彼女達はフラフラチマチマズルズルと内股で歩いており、後ろから見ている私は、いつ彼女らが躓いて倒れてしまうかハラハラしてしまう。ところが倒れない。若さゆえか。

彼らの歩き方そのものもおかしい。数年前に私のゼミナールで──何故だか知らないが──当時在籍していたゼミ生の作った楽曲のプロモーションビデオを制作したことがある。そのビデオの一シーンには、歩いていく男子ゼミ生を後ろからカメラが追うという場面があった。私は、そこでなにかヘンだということに気がついた。その男子ゼミ生は、腕を前後ではなく、左右に振って歩いていたのだ。

その発見のあと、私は他の人の歩行の様子について観察してみた。すると、腕を左右に振って歩いている人が、かなりいることに私は気がついた。読者は、今からの私の説明を実験してみてほしい。いわゆる正しい(西洋型)歩行方式では、腕を前後に大きく振りつつ肩から上半身を左右に回転させる一方、腰を肩とは逆方向に回転させバランスをとりつつ、腕と反対側の足を大きく蹴り出すという歩き方をする。かなり大げさになるし、軍隊調の歩き方になるが、まあそういう仕組みで歩行することになっている。ところが、腕を左右に振って歩行するためには、まずエヴァンゲリオンのように猫背になり、体の前方に腕をダラリとぶら下げなければならない。そうして腕を左右に振ってみよう。すると肩も腰もまったく回転させることなく、体が左右に揺れることになる。その揺れを利用して歩行すると、おおよそ「つま先」から「かかと」までの長さに該当する歩幅で歩行することができる。うん、この歩行方式は体のどの部分も積極的に運動させずに歩くという目的には合致している[1]。

私は、こうした悲惨な状況を理解しているので、大学一年生向けの基礎ゼミにおいて、姿勢を維持することがいかに大事かということを語ることにしている。大半の大学生は素直にその話を聞いて、数分間にわたって「良い姿勢」を維持するが、だいたい10分後には、全員グンニャリと崩れている。しかし、学生を強く指導することがアカデミック・ハラスメントであるとされている現代の教育現場においては、──「良い姿勢」の指導が「アカデミック」だとはとてもいえないが── 教師は、学生に「提案」や「お願い」することはできても強制的な指導をすることはできない。

それでも、授業中には意識的に姿勢を維持しようとする素直で健気な学生もいる。ところが、──これも観察によって気がついたのだが── 講義が終わって友人達に混ざる瞬間、その「良い姿勢」が猫背でグンニャリ型に変化するのだ。友人達の大部分がグンニャリ型であるときにビシッとした「良い姿勢」は周囲から浮くし、友人達の大部分がフラフラチマチマ型歩行をしているときにキビキビした「正しい歩行」は早すぎてしまって一緒に歩けない。社会の大勢が「良くない姿勢」であるときに、同調圧力がかかり「良い姿勢」は抑制されてしまうのだ。事実、私は学生から「妙に姿勢がいいですね」とか「歩くのが早すぎます」「軍隊や警察のような歩きかたですね」などと批判される。私が間違っているのか...

*  *  *  *  *

[1] 明治時代に西洋型の身体観や操身法が導入される以前には、日本古来からの身体観と操身法が存在していたのだ、という主張や資料が存在していることは知っている。たとえば、身体を捻らない歩行法であるとか、すり足を用いて重心をなるだけ低く滑らかに移動させる歩行法であるとか、やや前傾した猫背気味の標準姿勢であるとか、そういうものである。私はそれらが日本人の身体に適合的であり、健康にも望ましい影響があるという主張を否定するつもりはない。

しかし、この妄想的論説で問題にしようとしているのは、私たちの現在の社会を基礎付けている近代性(modernity)としての「身体」である。明治政府が、西洋の制度の導入の一環として、西洋型の身体観や操身法を導入したのは、それらが具体的な意味と象徴的な意味の両方において、制度を支える基礎として必要であったからだと私は考えている。そして、私たちが「近代の身体」が維持できなくなることは、いずれそれを基礎とする近代の制度をもまた維持できなくなると、私は考えているのだ。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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