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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第五回 美と規範 III

2007年6月13日

春頃、美術大学の教員・講師・職員たちが集う立食パーティが年に一回催される。幸いなことに私の自宅から近いホテルで毎年行われているので、ありがたく参加させて頂いている。そこには、つい最近まで美大生であった若い助手達も参加する。で、その若い助手達が集まっているテーブルに立ち寄って、思わず眩暈がしたわけだ。

立食パーティは、それぞれが小皿に好きなものを載せ、軽い酒を傾けながら談笑するものだろう。ところが、助手達は一卓を占拠し、小皿にゴチャゴチャと様々な料理をあらん限り積み上げ、その小皿で卓上を埋めているのである。一皿に料理を積み上げれば料理の味が混じり台無しになるし、様々な色彩がグチャグチャに混ざり合い甚だ美的でない。そんな様子に、彼らが平然としていることに衝撃を受けた。

そのような無神経に直面すると、普段は気にならない彼らの服装についても一言言いたくなる。まあ美大の教授達の中にもそのような人がいるのだから、彼らだけが受ける批判ではないと思うが、ホテルでの立食パーティなのだから、やや汗の匂う着古した(着こなした?)Tシャツとジーンズ以上の服装をする気使いくらいできないのだろうか。もちろん、それが彼らの美学上の位置取りなら、それはそれとして尊重したいが、彼らの専攻を訊ねてみれば、洋画、日本画、彫塑、彫刻なのである。彼らは、視覚的美について幾許かでも専門教育を受けているはずである。それにしては、あまりにも「美しくない卓」である。

その点について、オヤジたる私が苦言を呈したところ、趣旨としては「みんなが気楽に楽しむ内輪の会なんだから無礼講である」「自分達は若く貧しいのであるから小奇麗な格好などする余裕はない」「自分達は、自分達の感性を反映した個性的な服装をそれぞれ選んでいるのである」「一般から超越した芸術家には、世俗的な意味でのマナーは必要がないのである」等、まあ、要するに「ウゼエオヤジだ。あっちへ行ってな」的扱いを受けたわけだ。唯一、日本画専攻の助手が私の話について一通り聞いて理解したうえで、やはり上記の趣旨の反論をくれた。ありがとう。すると、自分たちの指導者である教授や学外の客が参加するホテルの立食パーティにおいて、普段着で参加し傍若無人に食べ散らかすことは、彼らの美学にかなう行為らしい。

彼らは作品と自らは別であると言うだろう。しかし、私は日常の生活に美を意識しない人物は、その作品においても美を実現することは不可能だろうと考える。その理由は、純粋美術の価値は「普遍的な美」についての哲学にあり、哲学は全人格的なものであるが故に、その哲学は避けようがなく全人格的に表現されてしまうと考えるからだ。もちろん、天才的芸術家において、奇人変人の類が多く、彼らの奇矯な行動が逸話として残っているのも事実ではある。ではしかし、彼らは、自らがそれらの逸話に加わるべき資格をもった天才であると考えているのだろうか。そうした非社会的存在としての天才芸術家のイメージを模倣し、その結果として「個性」と称する単に自堕落な服装や態度を選択する口実に「美術」が用いられているのならば、それは美術がかわいそうだというものだ。

確かに非常勤講師たる私が、彼らの「あり方」について苦言を言うのは越権行為だったとも思う。なぜなら彼らの直接の指導者であり上司である教授達が、彼らのあり方を容認し、そして助手として採用しているのだ。さらには、彼らの中の何人かは、おそらく美術界で後進の指導にあたる立場を得ることになるだろう。このような状況において、はるか古代から探求されてきた「普遍的な美」の価値や哲学が、何らの効力ももち得ないというのは、仕方がないことだろう。

こんなことを書いて、私が美大で純粋美術系の学生にボコボコに殴られたりしないことを神に祈ります。

さて、どうしてことさらに美大の学生を論ったのかと言えば、「美」に関する判断は感覚的な要素を含むので、我々のような一般人にも具体性をもって理解しやすいと考えたからだ。美大生は、明らかに「美」について専門家であるはずにもかかわらず、彼らが美の規範を尊重せず実践していないらしいことを示すことで、まして「美」についての素人である一般の人々に、それを期待することが絶望的に困難であることを示したかった。マナーは、社会的な振る舞いについて、かつて存在した美学を反映している。そして言うまでもなく、マナーが規範を生み、規範が国家権力をもって強制されると法律となる。とすれば、ここまでネチネチと書いてきたことは、そのまま「真」や「善」といった他の価値に関する哲学ついても同様に適用できることになる。

個性や多様性が価値を持つ対極には、確固たる規範が必要である。価値ある規範が存在するからこそ、その否定に積極的な価値が生じるのだ。しかし、現代においては、規範が無視されたまま、個性や多様性なるものが根拠なきまま浮遊していると私は判断する。そこで、私はこのblogで、私の浅学非才を惧れつつも、日常生活にかかわる「失われた普通」を歴史と論理から解説していきたいと考えている。これが、私がこのblogで「説教を書きます」と宣言した具体的中身だ。

誰もが個性的であろうとして、誰も実践していない「普通」なら、それを実践することで「とても個性的になれるよ」という、捻じれた提案。次回は、「立居振舞」。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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