揺れる言葉
2010年6月29日
(これまでの 小田切博の「キャラクターのランドスケープ」はこちら)
けっこう期待していた2000年代アメリカにおけるコミックスに関する「批評」のアンソロジー『The Best American Comics Criticism』(Ben Schwartz編、Fantagraphics刊)は、届いてみたら個人的にはいろいろ首を傾げざるを得ない微妙な本だったのだが、巻頭の編者ベン・シュワーツによる序文にはちょっと興味深いエピソードが書かれていた。
それはシュワーツが書店のコミックス売り場で目にした十代の少女二人の会話である。シュワーツによれば片方の少女が「Comics」と「Graphic Novel」の違いがわからないと困惑するのに対し、もうひとりが「そんなのは簡単だ、Graphic NovelはシリアスでComicsはファニーなものだ」と解説してみせていたのだという。
年季の入ったコミックス読者である彼は、この少女の見方に心のなかでいろいろツッコミを入れざるを得ないわけだが、一方でこうしたコミックスの語られ方自体を、「コミックスに対する社会的認知」の高まりのひとつのあらわれとしても捉えている。
いうまでもなく「Comics」は、日本語で「マンガ」と呼ばれているメディアに対する英語での呼称である。いっぽう90年代以降に一般化した「Graphic Novel」という新語は、狭義には「文学的なマンガ」といった意味で使われる言葉だが、「マンガ単行本」という意味や、単に「Comics」のいい換えとして使われる場合もあり、厳密に用法が確立された言葉というわけではない。
大抵は「Comics」のほうが「マンガ表現全般」を指し、「Graphic Novel」のほうがその中の一ジャンルということになるだろうが、このシュワーツが紹介しているエピソードを見ると、一般レベルではもう少し大きな振れ幅をもって、英語における「Comics」という言葉の意味づけが揺れているのかな、という気がする。
もともと「Comics」という言葉のあり方にはちょっと妙なところがあって、新聞連載のマンガの場合、ギャグやユーモアをメインにするものは「Comic Strip」と呼ばれ、冒険活劇的なストーリーマンガは「Adventure Strip」と呼ばれる。ここから普通に考えればマンガ全般の呼称は「Strip」になりそうなものなのだが、メディアや表現形式そのものは「喜劇」を意味する「Comics」の語が充てられている。
こうした言葉自体の語感の問題もあってこの少女たちの解釈もあるのだろうが、このような言葉とその指示対象、語感のブレや言葉そのもののニュアンスの変化は、じつは日本語の「マンガ」についても過去何度も生じてきている。
そもそも北沢楽天がイギリスの雑誌『パンチ』などに掲載されたカートゥーンやカリカチュアを「漫画」と呼称した際には、そこに現在のような「複数のコマを持つマンガ」は含まれていなかったわけだし、60年代から70年代にかけては件のアメリカの少女たちよろしく「劇画はシリアスで漫画は愉快なもの」というような意図で「劇画」という言葉がプレゼンテーションされ、相応に使われていたこともある。
しかし、下手をすれば現在は楽天の描いていたような一コママンガをマンガとは考えない層も存在しかねないし、いまの十代、二十代であれば「劇画」という言葉の存在自体を知らなくても特に不思議ではないだろう。
言葉というのはけっこういい加減なもので、その用法どころか意味のレベルでも変化していく。
海外や過去のマンガについての言説を追っていると、このような言葉の揺らぎを意識せず、いま自分の持つ「マンガ」という言葉やそれに付随するマンガ観を自明なものとして語ることに対しては、相応の疑問と留保の感覚を持たざるを得ない。
私にとってのマンガとあなたにとってのマンガは同じものなのか、そういう問いはもっと問われてもいいはずのものだと思う。
小田切博の「キャラクターのランドスケープ」
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