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小田切博の「キャラクターのランドスケープ」

マーチャンダイジングの観点から、マンガ・アニメ・ゲームなど、日本の「コンテンツ・ビジネス」の現在を考える。

「ポップ」がわからない

2009年10月27日

(これまでの 小田切博の「キャラクターのランドスケープ」はこちら

以前、マンガ評論家の伊藤剛と話をしていて「小田切さんはポップがわかるから」といわれて唖然としたことがある。

聞いたときに思わず「はあ?」とか間の抜けた声を出してしまったのだが、意味がよくわからなかったので「ポップはポップだろう」的な返答をしたら、彼の意図としては「最近の若いヤツはポップがわからないから話が通じない」というようなことをいいたかったらしい。「最近の若いヤツは云々」というのは私たち自身散々いわれてきたことだろうから彼には悪いがとりあえず棚上げするとして、そこで私が思ったのは「ポップがわかる」ってどういうことだろう?ということだった。

彼と雑談してるときは80年代後半から90年代前半くらいまでのポップミュージックやロックの話をしてることが多いので(それ以降は私自身がロクに音楽を聴いていないから必然的にそういう年代設定になる)その辺から連想するとなんとなくわかるような気もするのだが、やっぱりよくわからない。特に「わかる」といわれておいてなんだが、よく考えると「ポップ」という概念自体がよく理解できていない気がする。

……でまあ、この機会に改めて辞書を引いてみると、思った以上にいろんな意味が載ってたりするわけだが、まさか「〈卑俗〉セックス、性交」のことじゃないだろうし「大衆向けの」の意味がこの場合は近い線になるのだろう。「ポピュラー」の短縮型、要するに「ポップカルチャー」や「ポップミュージック」、「ポップアート」という場合の「ポップ」だ。

手元にある有斐閣『社会学小事典』の「ポピュラー・カルチャー」の項目には「生活・消費水準の上昇,マスメディアの発達,情報生産・伝達技術の開発を背景に,社会のすべての階層の人びとに入手・享受可能になり,彼らに共有される文化の総称。」とある。ちなみにWikipediaの「Popular culture」の項目には「Popular culture (commonly known as pop culture) is the totality of ideas, perspectives, attitudes, memes, images and other phenomena that are deemed preferred per an informal consensus within the mainstream of a given culture. 」とあり、この「主流文化においてカジュアルに好まれると見なされているアイディア、観点、態度、ミーム、イメージ、その他の諸現象の総称」という定義は長ったらしいがうまいと思った。

「ポップカルチャー」を「大衆文化」と訳すと、ある特定の階級に支持されるものを指すようだが、これらの定義を見る限り「ポップ」という概念は社会階層やメディアの形態にかかわらず「広範に共有されている」ことに力点が置かれた言葉だということがわかる。

ここで先の伊藤の発言に立ち戻り、この「共有されている」という含意を前提にすると「ポップがわかる/わからない」なる言葉の意味も、もう少し明確になるように思う。つまり、それは「社会的にある程度広範に共有されたポピュラリティー(人気・知名度)」のイメージ自体がうまく他者と共有できなくなってきている、という問題意識ではないのかということだ。

たとえばテレビや映画、ラジオ、雑誌といったマスメディアと、インターネットや携帯といったデジタルメディアとの最大の違いは、前者がユーザーの消費行動に対してある「一般性」を強要するのに対して、後者による消費はユーザー個々人の手でカスタマイズ可能だ、という点だろう。テレビやラジオのヒットチャート番組は否応なくその時代の「ポップ」をユーザーに押し付けてくるが、ユーザーそれぞれが好きなようにダウンロードしたiPodのディスク上の楽曲には、そのような「共有された」価値観は存在していない。これ自体はいいことでも悪いことでもないが、前者から後者へ消費形態の中心が移行すれば「ポップ」に対する感覚は必然的に希薄になる。

個人的には(これは世代的な問題とはちょっと違うと思うのだが)こういう意味でなら、先ほど棚上げした「最近の若いヤツ」という部分でも私自身、多少の心当たりが出てくる。

先日、ある知人からゲームタイトルから派生したコンテンツに関するキャラ萌えの話を熱く語られてちょっと辟易したのだが、そのときにこの「ポップがわからない」の話を思い出し、私がこうした語りが苦手なのはそこにマジョリティーとしての「ポップなもの」に対する相対的な感覚が欠如しているからではないかと思った。

彼や彼女は誰もが理解して当然のことであるかのように、前につんのめるかのような自身のキャラクターへの愛情を語り、それはそれで純粋で美しいことであるような気もするのだが、たとえば『ドラゴンクエスト』のようなゲームの場合、そのような「キャラ萌え」的な消費をするユーザーはあきらかにマイノリティーだろう。

マーケットのメインストリームはあきらかに小中学生の「単にゲームがしたい」ユーザー層であり、そうした「ポップ」としてあるゲームに対するある種の「批評」として「キャラ萌え」が主張されるならともかく、まったく検証もされないままそのような消費形態こそ「ポップ」であると語られても、こちらとしては困惑せざるを得ない。

もちろんタイトルによっては実際にそうした消費形態がユーザーの過半を占めるものもあるだろうし、現在ではそれがニコニコ動画やTwitterやはてなダイアリーなどを通じて数万人規模の支持を集めていることも珍しくはないだろう。だが、そうした価値基準がそれらのコミュニティー外部にあるマスのレベルで共有されていなければ、それはやはりただのカルトな流行であってポップではないのだ。

そして、感覚としてそういう区別が見失われてしまうのは、私もやはりちょっと困ったものではないかとは思う。

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プロフィール

小田切博

ライター、90年代からフィギュアブームの時期に模型誌、フィギュア雑誌、アニメ誌などを皮切りに以後音楽誌、サブカル誌等、ほぼ媒体を選ばず活動。特に欧米のコミックス、そしてコミックス研究に関してはおそらく国内では有数の知識、情報を持つ。著書として『誰もが表現できる時代のクリエイターたち』、『戦争はいかにマンガを変えるか』(ともにNTT出版刊)、共編著に『アメリカンコミックス最前線』(トランスアート刊)、訳書にディズニーグラフィックノベルシリーズがある。

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