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小田切博の「キャラクターのランドスケープ」

マーチャンダイジングの観点から、マンガ・アニメ・ゲームなど、日本の「コンテンツ・ビジネス」の現在を考える。

マンガと海外

2009年2月27日

(これまでの 小田切博の「キャラクターのランドスケープ」はこちら

ちょっと年頭からゴタゴタしてしばらく間が空いてしまった。

リハビリ代わりに少し軽い話を書いておこう。

1月の半ばふたつほど海外のマンガに関するシンポジウムが京都で重なってあり、ちょっと聞いておきたかったのでいってきた。ふたつともおもしろいことはおもしろかったのだが、例によって埒もないことをいろいろ考えさせられた。

ひとつは国内でのマンガ研究というものがまだ形成過程にあるんだな、という単なる感慨だったのだが、もうひとつは日本人がマンガというものを通して海外を語る際にいつも感じる一種の恣意性とそれに対する諦めのようなものについてだ。

ふたつあったシンポジウムのうちひとつはテーマそのものが「フランスのマンガ(バンド・デシネ)」についてのものだったから当然そんなことはなかったが、もうひとつのシンポジウムのテーマのひとつが「海外における日本マンガの影響」だったため、こういう感慨はやはり持たざるを得なかった。

簡単にいうとそこでのレポーターの報告では日本マンガの海外への影響はさかんに語られるのに、その海外(アメリカ、アジア、ヨーロッパ)におけるマンガのあり方や状況に関してはほぼ触れられず、現に存在している海外「から」の影響もほぼ無視される、という態度が一貫してとられていた。

結果的にはそうした態度に対し進行役の別なパネラーからの批判もあり、首を傾げながら聞いていたら私自身発言させられたりしたので、イベントとしてはスラップスティックでおもしろかったのではないかと思うのだが、このような態度は現在の日本でもっとも頻繁に見られるものであり、研究者レベルのスピーカーからそのような紋切り型な見方を聞かせられたことに対しては少なからぬ虚しさを感じた。

会場でお会いした小野耕世さんとも話していたのだが、このような態度はけっきょく「海外のマンガ」そのものに対する興味や関心の欠如に由来している。

そのもっとも大きな原因は日本のマンガ市場にはほぼ海外作品の翻訳市場が欠落しており、作品そのものがロクに流通していないことだが、これに関連して少し奇妙だといわざるを得ないのは翻訳にしろ、紹介にしろ個々3、40年ほどのあいだ日本では私自身を含め日本社会では海外のマンガを日本のマンガと同列の「マンガ」として扱ってこなかった、という点である。

たとえばベルギーの作家、エルジェの「タンタン」シリーズは世界的なベストセラーだが、日本では「絵本」として翻訳されており、国内でも全巻発売されているにも関わらずそれがマンガとして語られることはほとんどないどころか、書店における売り場自体が異なっている。

よく考えるとこの現象はかなり奇妙なことだと思うのだが、現実にはこれが奇妙だとはほとんど思われていない。

そして、その「そう思われていない」こと自体がじつはもっとも奇妙なのである。

以前、山口昌男や鶴見俊輔といったひとたちが50〜70年代くらいに書いたマンガについての文章を読んでいてたいへん驚いたのだが、当時の彼らのエッセイや論考においては明確に「欧米のマンガはすぐれていて、日本のマンガもそれに追いつかなければならない」という主張がとられている。つまり、あきらかに山口や鶴見にとって日本のマンガと海外のそれはひとつながりのものであり、むしろ「海外のマンガ文化をモノサシに日本の水準を測る」ことが意図されていたわけだが、80年代以降日本のマンガ言説においてはかつて「そのような発想があった」という事実自体がきれいに消去されてしまっている。

これは本来かなり不気味に思われるべきことではないのか。

さらに自分の経験に照らし合わせていえば、その後散発的におこなわれてきた日本での海外マンガの翻訳、紹介においてはじつはそれが「海外のもの」であるがゆえにプレミアム性があるという発想そのものは消滅しておらず、その後もくり返し主張されてきていることだ。

たとえば「SF」として『へヴィメタル』はスゴイ、「アート」としてアンダーグラウンドコミックスやオルタナティブコミックスはすぐれている、「サブカル」としてスーパーヒーローはクールだ、といった発想がそれにあたる。こうしたものいいはSFブームやフィギュアブームといったその時々の流行にあわせて主張され、消費されてきたが、奇妙なことに「日本のマンガ」に対してプレミアム性を主張する方向にはけっして向かわない。

もちろん70年代以降極端に巨大化したマンガ市場を持つ日本でどのようなかたちであれ「そっち」に引きつけてその種の主張をするのは得策じゃない、というのは自分の経験から考えてもあるはずだが、それを割り引いてもタブーのようにそこが語られないことや、過去の言説が抹消されていることは、現在の「日本マンガの影響」ばかりを語りたがる心性とどこかでつながっている気がしてならない。

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プロフィール

小田切博

ライター、90年代からフィギュアブームの時期に模型誌、フィギュア雑誌、アニメ誌などを皮切りに以後音楽誌、サブカル誌等、ほぼ媒体を選ばず活動。特に欧米のコミックス、そしてコミックス研究に関してはおそらく国内では有数の知識、情報を持つ。著書として『誰もが表現できる時代のクリエイターたち』、『戦争はいかにマンガを変えるか』(ともにNTT出版刊)、共編著に『アメリカンコミックス最前線』(トランスアート刊)、訳書にディズニーグラフィックノベルシリーズがある。

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