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松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」

今後、テクノロジーの発達に伴い大きく変化していく”乗り物”をちょっと違った角度から考え、体験する。

たった1万円で、あなたの自転車を2倍パワフルにする方法

2009年3月19日

(これまでの 松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」はこちら

 今回の話題は、自転車マニアならばタイトルを見ただけで「ああ、あれね」とにやにやし、一方で普通の人は「自転車は自分の脚で漕ぐんだろ。いきなりパワーが2倍になるはずがない」と思うであろう。
 自転車のパワーを一気に2倍にする方法──それは実在する。マニアはそれを知っていて当たり前に使いこなしているが、普通の人は知らないのだ。

 もったいぶらずに書いてしまおう。自転車のパワーを2倍にする、すなわち自分の脚力を一気に2倍にする道具──それはビンディングペダルというものだ。ビンディング、英語で書けばbinding。辞書を引くと「結合、製本」といった意味に加えて「スキーでボードとブーツと接続する金具」と書いてある。そう、文房具のバインダーと同じ語源の単語だ。スキーのビンディングを知っている人は、これだけでビンディングペダルがどんなものかを想像することができるだろう。要するに脚を自転車のペダルと結合する装置だ。
 ビンディングペダルは、底にクリートという金具を付けた専用の靴と組み合わせて使用する。自転車に取り付けたビンディングペダルに、専用の靴を履いた脚を乗せると、靴底のクリートとペダル側の金具がかみ合って、脚がペダルに固定される。はずす時には足首を横方向に軽くひねる。するとクリートとペダルのかみ合わせがずれることで簡単にはずれ。、脚をペダルから下ろすことができる。

 脚がペダルに固定できると、ペダルを踏み込むだけではなく、脚の筋肉を使ってペダルを引き上げることも可能になる。脚の表裏すべての筋肉でペダルを回転させることができるようになるわけだ。踏み込みだけでなく、引き上げでもペダルを回せるので、使える筋肉が2倍になって自転車を漕ぐパワーも2倍になるという理屈である。副次的に、ペダルと脚が最適の位置関係でしっかり固定されるので、楽に安定したペダリングを長時間続けることができるようになる。
 実際にはパワーが2倍にもなることはないそうだが、それでもビンディングペダルを使うと一気に自分がパワフルになったような感覚を実感できる。

 脚をペダルに固定すると脚を乗せるだけのペダルよりもずっとパワフルに走れるということは、自転車創世記から分かっていたことだった。しかし、自転車は止まるとそのままでは倒れてしまう。脚で支えることが必要だ。ペダルに脚を固定してしまっては、止まった時に体ごと倒れ込んでしまう。また、走り出しには、特にあれこれ準備しなくともすぐに脚を固定できることが望ましい。
 つまり、脚をペダルに固定するにしても、「固定しやすく、外しやすい」という矛盾した条件を満足した機構が必要なのだ。

 自転車が19世紀末に現在の形になって以来、長年使われてきたのが「トウクリップ・アンド・ストラップ」という方式だった。これはペダル側につま先を覆うようにして固定する「トウクリップ」という金具を取り付けてつま先を固定、もう一ヵ所、足の甲の中程をベルトで締めるというものである。つっかけサンダルをベルトで足に固定するようなものだ。ベルトは、引っ張るだけで締まるようなものや、ベルクロで固定するものなど、色々な工夫が存在する。
 走り出す時はつま先をトウクリップに突っ込んで、前方に注意しつつ走りながらベルトを締める。止まる時は、脚を左右に動かしてベルトを緩めて足を抜く。使いこなすにはなかなかの慣れが必要で、長距離レースに出場するプロ選手や、長距離サイクリングを楽しむアマチュアなどが使用するものだった。現在でも、使用機材に厳しい規定が存在する競輪ではトウクリップ・アンド・ストラップを使用している。
 Wikipediaによると、世界で初めて本格的なビンディングペダルの販売を始めたのは、スキー用ビンディングの製造メーカーであるルックで、1984年のことだったそうだ。その後、日本のシマノを初めとした世界の様々なメーカーがビンディングペダルを発売し、現在に至っている。

 「脚を自転車に固定するなんて怖い」と思う人は多いだろう。しかし、私個人の経験から言わせてもらうと、ビンディングペダルを使うと使わないとでは、自転車という道具を見る目が大きく変化する。「え、自転車ってこんなに活発に走るものなのか」と思うようになる。
 そして、幾分の注意深さと練習熱心と、少々の反射神経さえ持ち合わせていれば、ビンディングペダルは決して難しいものでも、危ないものでもない。要は慣れなのだ。

 以下、小学校から高校まで運動音痴で通してきた私の事例をまとめてみよう。

 私は5年前から、イタリアの自転車メーカーGIOSが販売しているクロスバイクというジャンルの自転車GIOS Pure_Dropに乗っている。2009年モデルの価格は定価9万6600円だが、私が買った頃は8万円台半ばだった。クロスバイクとしては高くもなく安くもない、標準的な自転車だ。
 クロスバイクというのは、ロードスポーツほど走ることのみに振った設計ではなく、走行性能を確保しつつも公道での便利さや快適さも考慮した種類の自転車である。
 このGIOS Pure_Dropに、ビンディングペダルを取り付けたのは、2006年10月のことだった。私は、この時44歳。元祖天才バカボンの歌で「41歳の春だから」と歌われたバカボンのパパよりも、3歳も年を食った段階で、ビンディングペダルを使い始めたというわけだ。

 取り付けるまでは大分迷った。やはり転ぶのが怖かったのだ。車道を走っている時に車道の側に転んで、そこに自動車がやってきたなどということになったら目も当てられない。
 すでにビンディングペダルを使っている友人達に相談もした。「やっぱり転ぶかね?」
 すると返事は決まって「転ぶね」「絶対転ぶね」「まあ、10回くらいは覚悟しておこう」というものだった。つまりは、全員が転倒の経験者だったのだ。
 それでも、ビンディングペダルを取り付けたのは、GIOSを買った自転車店の店長が「ビンディングペダルを使う使わないでは、全然違いますよ。自転車を楽しむなら一刻も早くビンディングペダルに慣れるべきです」と強く薦めたからだった。

 私が購入したのはシマノ製のSPDというペダルと専用の靴だった。
 ペダルは両面がビンディングとなっているものを選んだ。片面が通常のペダルでもう片面がビンディングとなっているペダルもあるのだが、そちらを選んでしまってはおそらくいつまで経ってもビンディングペダルの使い方を覚えないだろうと思ったのである。
 靴は、自転車を降りてからそれなりの距離を歩くことも考慮して、底が柔らかめでぶ厚い、サイクリング用を選んだ。底にクリートを取り付けるので、歩くとコチコチ音がするが、そんなに歩きづらいということもなかった。
 ペダルと靴と、合わせて1万円はしなかった。これで意図した通り、自転車がパワーアップするなら安いものだ、是非とも使いこなさねば、と考えたのを覚えている。

 なお、ビンディングペダルにはロードスポーツ用のものもある。シマノで言えば、SPD-SLというペダルがそうだ。これは底が堅い素材でできた靴と組み合わせて使用する。どのビンディングペダルを選ぶかは、どのように使用するかによる。私は、「自転車を降りて、それなりの距離を歩くこともある」と考えて、上記の選択をした。

 最初にビンディングペダルを使う時にはかなり気を遣った。自転車が止まった状態で何度も練習を繰り返し、信号などで停止する際のイメージトレーニングを行ってから公道へと乗り出したのであった。

 結論から言うと、心配することは全くなかった。快適性は大きく増し、その一方で危険性が増大するということもほとんどない。なんでもっと早くビンディングペダルを使い始めなかったのかと後悔するほどだ。使用開始以来2年半、今や私は近所の買い物に行くのにも、専用の靴を履き、ビンディングペダルで脚を固定して自転車に乗るようになっている。
 快適さは、これはもう実際にビンディングペダルを使って貰うしか説明のしようがない。非常に感覚的に説明すると、それまで10km/hを走るのに必要だった労力で20km/hを出せ、20km/hで走っていたのと同じ感覚で25km/hで走ることができる。明らかに自分がパワフルになったと実感できるのだ。坂を登るのも楽、速度を出すのも楽だ。

 友人達にはさんざんおどされた転倒だが、乗り始めてから3ヶ月ほどの間に2度してしまった。ただし、2回とも30kmほどの距離を走って帰ってきて、「ああやれやれ、帰ってきたぞ」と気を抜いた瞬間、自宅の前でひっくり返ったというものだ。通常、気をつけて乗っている分には、脚が外れなくてあわてるという思いをしたことはない。
 ペダルには外れやすさを調節するネジが付いている。私は、出荷時の標準設定よりもやや外れやすくして乗っている。それでもきちんと脚は固定できる。今まで脚が不意にはずれたことはない。よほど力を込めて漕がない限り、はずれるということはないだろう。

 2年半もの間走り回るうちに、ビンディングペダルを使うのが当たり前になり、「止まる時にはあらかじめ手前から脚をひねってペダルから外しておく」というのが、反射神経に刷り込まれてしまった。今では何も考えずにさっとペダルから脚をはずすことができる。駅前の繁華街のような、人や自動車の往来の多いところも日常的に走っているが、危険性を感じたことはない。あまりに人通りが多ければ自転車を降りるし、脚を固定していると危ないなと感じた時には、外した状態で脚の土踏まずの部分でビンディングペダルを踏むというやり方で走るようにしている。ごく短距離だし速度も出ていないので、それで十分だ。

 実際にビンディングペダルを使用して思うに、これは自転車を楽しみたいのなら必須の装備と言っていいのではないだろうか。私のような運動音痴が四十代半ばになっても使いこなせるところからすると、「転倒するのではないか」という恐怖は先入観であろう。大多数の人は適度な練習によって十分使いこなせるはずだ。ただし、自転車の種類は選ぶことになるだろう。フレームの剛性が低い低価格の自転車だと、自分が自転車を漕いだだけでフレームが左右によじれてしまい、せっかくのパワーアップ分が十分加速に使われないということになりそうだ。

 2年半、ビンディングペダルを付けた自転車に乗り続けた経験の上で、私見をざっくり大づかみに言ってしまうと、あなたが40歳以下で健康であり、ある程度フレームがしっかりした自転車に乗っているならば、是非とも1万円を投資してビンディングペダルの使いこなしを覚えることをお薦めする。特に十代だったらば、ビンディングペダルになじんでおくことは、水泳と同じように一生の財産となるだろう。
 たとえ50歳、60歳を越えていたとしても、「是非とも使いこなしてやろう」という意欲があるならば、チャレンジする価値はある。十分な注意の上で、少しずつ体を慣らしていくならば、決して難しいものではない。

 ただし、「そう言われても…やっぱりなんとなく怖いし」と思ったり、「ああ、自分には絶対ダメダメ」と最初から諦めてしまうタイプの方には、無理にお薦めしない。ビンディングペダルを使いこなすには、なによりも「使いこなしてやろう」という意欲が必要だ。その意欲が出ない人は、危険性が増すばかりなので使うべきではない。

 最後に──私には、今後の高齢化社会の中で、ビンディングペダルの使いこなしは、かなり重要になっていくのではないかという気がしている。というのは、自分が使ってみての実感だが、ビンディングを使って自転車に乗っていると、脚の筋肉が均等にバランス良く鍛えられるように思えるのだ。
 老化によって反射神経が衰えると、はずすべき時に脚がはずれないというような問題が起きるのかもしれない。しかしその一方で均等に脚を使い続けると、結果として老化を遅らせることにつながるというメリットがあるのでは、とも思うのだ。
 さらには歳を取ると、外出時のモビリティが切実な問題となる。高齢者が運転する自動車の交通事故が問題になる昨今、若いときからビンディングを使って自転車を使い続けるというのは、老後のモビリティを確保する有力な手段にも思えるのだがどうだろう。

 なお、ネットを検索するとこのような驚嘆すべき鉄人を見つけることもできる。74歳にして、年間の自転車走行距離1万7925km!
 ここまでの境地は難しいとしても、たとえ70歳、80歳になったとしても自転車に乗り続けることができたとしたら、それはなかなか良い人生と言えるのではないだろうか。

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プロフィール

ノンフィクションライター。1962年、東京都出身。日経BP社記者を経て、現在は主に航空宇宙分野で執筆活動を行っている。著書に火星探査機『のぞみ』の開発と運用を追った『恐るべき旅路』(朝日新聞社)、スペースシャトルの設計が抱える問題点を指摘した『スペースシャトルの落日』(エクスナレッジ)、桁外れの趣味人たちをレポートした『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ)などがある。

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