金融市場はなぜ情報的に不完全か
2007年9月26日
(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら)
このところの株式市場の価格の乱高下が激しい。
まあ、こういうときは、「ギャンブルとして熱い」状態だともいえ、勝負師たちにはこたえられないだろうが、普通に株で資産運用している人たちは、きっと戦々恐々となっていることだろう。
このような「株価の心理面からの乱高下」というは、大昔から指摘されていたことだけど、「合理性」を前提とする経済理論ではなかなかそれを的確に記述することができなかった。というか、むしろ、定番の経済学的な思考からすれば、「株式市場は、常に経済実態を反映した価格を形成し、効率的である」と結論してしまうのが自然だったのだ。
理由はこうだ。
例えば、ある企業が何らかのイノベーションに成功して将来の業績見込みが大きくなったとせよ。すると、それを企業調査によって知った投資家たちが、将来配当の上昇を見込んでその企業の株をこぞって買うだろう。そうすれば、当然、その企業の株価は上がる。このような株価の値上がりは、期待される将来配当の価値(現在価値)に見合う水準になるまで続く。であるから、株式市場で観測される株価水準というのは、おのずと企業の将来収益を反映したものになるはずなのだ。このような考え方を「効率的市場仮説」という。
これに一石を投じたのが、グロスマンとスティグリッツの1980年の論文[*1]である。
彼らはこの論文で、株式市場で企業の調査を全く行わず値動きだけを参考に取引するトレーダーの行動がある意味合理的であり、したがって、そういうトレーダーが存在するのは必然的だ、と主張した。それゆえ、そのようなノイジー・トレーダーの存在によって、株式市場で観測される株価という価格情報は不完全にして非効率である、と結論したのである。
実際、株式市場には、「チャート分析(テクニカル分析)」という方法論が存在する。これは、企業の実績にはあまり目を向けず、株価の変動にある種の「規則」を見出すことで取引を行う手法である。このようなチャート分析を使うトレーダーは(機関投資家・個人投資家双方に)相当数存在しているらしい。
例えば、代表的なチャート理論として「ゴールデン・クロス」というのがある。これは、「過去100日間の株価の平均をプロットした線、いわゆる百日線が、二百日線を下から上に横切る時は将来値上がりが予想されるので買い」、という戦略のことだ。これについて、金融工学の専門家である今野浩は、(金融工学の学者が株価の動きはランダムだとして理論を作っていることを述べた上で)、こんなことをいっている[*2]。「筆者は10年ほど前の一時期、テクニカル分析を、かなり詳しく勉強する機会があった。経済学者の目を意識して、余り深入りしないように気を付けながらの勉強であった。しかし、実際にグランビルのゴールデン・クロス戦略などを使ってみて、意外に良く当たるものだと感心した記憶がある。」
さて、このようなチャート分析に終始するノイジー・トレーダーの存在の必然性とは何であろうか。
グロスマンとスティグリッツの説明を、おおざっぱにかいつまむと次のようになる。ポイントは、「均衡」だ。まず、全員がちゃんと企業実態を調査するのが均衡になるかどうかを考えてみよう。調査に費用がかかることをきちんと考慮に入れるなら、これは均衡にはなりえない。なぜなら、自分以外の全員がちゃんと企業収益を調べた上で株取引をしているなら、さきほど述べたような理由で、株価は企業の将来配当を反映した適切な水準になっている。だから、自分は調査をはしょって、その株価水準を信頼して取引すればいい。それで調査費用を浮かせ、その分を利益にすることができる。
では、全員が調査を怠るのは均衡になるだろうか。明らかにこれもならない。なぜなら、誰も調査をせずに根拠なく取引をしているのなら、自分だけ調査をして企業実態を知れば、無謀に高値で買おうとするトレーダーや安値で売ろうとするトレーダーと取引することによって、着実に利益を上げることができるからだ。
したがって、株式市場の均衡は、この2つの極端な状態の間のどこかにおちつくことになるのである[*3]。つまり、株式市場には、企業実態をきちんと調査する投資家と、彼らの情報にただ乗りをして取引しようとするノイジー・トレーダーが必然的に混在することになるってわけだ。
このことをもうちょっとだけ数学的に詳しく記述した説明は、ぼくの新刊本『数学で考える』(青土社)[*4]で読んでいただくことにして、ここではこれにちなんだ卑近なたとえ話を追加して終わることにしよう。
学生に数理的な問題をレポート課題として出したときなどに、これと同じ「非効率性市場」がよく観測される。つまり、教師は、全員がきちんと自分で計算して問題を解いてくれることを期待するのだが、おおよそそうはならないものなのだ。
なぜなら、多くがきちんと計算して解答を出しているのなら、その「正解」にただ乗りして、丸写しによって手間を省こうとする不届き者が必ず発生する。だからといって、全員がでたらめな解答をレポートすることも均衡ではない。(これはしばしば観測されるので、「均衡ではない」と表現した。泣ける)。なぜなら、みんながでたらめに解答を書いているなら、自分だけちゃんと解くことによって、自分だけ相対的にいい成績を取れるからである。つまり、提出されたレポートには、「自分でちゃんと計算して正解したもの」、「それを丸写したもの」、「それを生半可に聞きかじって間違ったもの」、「そのように間違ったレポートを丸写したもの」などが混在するのが常なのだ。
* * * * *
[*1] Grossman,S.J., and Stiglitz, J.E., "On the Impossibility of Informationally Efficient Markets'', 1980, The American Economic Review.
[*2] 今野浩『金融工学の挑戦〜テクノコマース化するビジネス』中公新書 2000年
[*3] どこに落ち着くのかを計算するのが、めっちゃテクニカルなのだ。それには「合理的期待」という推測理論を使う。いうまでもなく、こういう計算をきちんと実行したところに、この論文の偉大さがあるのである。
[*4] 小島寛之『数学で考える』青土社 2007年9月刊行。
この本は、年金問題、ヘッジファンド問題、通貨危機問題から、村上春樹の小説まで、さまざまな社会問題、人間問題に数学でアプローチするもの。このブログで前にちょっとだけ書いたケインズ理論や小野理論についても、ブログには掲載できなかったフルバージョンを収録してある。
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