ちょっと待て! 排出権取引 ~ もう少し冷静に考えよう
2008年6月12日
(これまでの 石井孝明の「温暖化とケイザイをめぐって」はこちら)
■排出権取引とは何か?
福田康夫首相は6月9日、温室効果ガスの排出権取引を今年秋から試験的に行う方針を打ち出しました。ですが、私はもう少し冷静な議論を重ねた方がいいと考えます。仮に排出権取引を行ったとしても、日本の産業界にとってメリットにならないため、積極的な参加は期待しにくいでしょうし、温室効果ガス・CO2が減るとも思えないためです。
先行して実施したEUでは、その効果が明確に示されてはいません。EUの経験をもう少し観察して、冷静に議論をするべきでしょう。
EUは、域内排出権取引制度(EU-ETS)を2005年から実施しています。「キャップ・アンド・トレード」と呼ばれる内容を紹介しましょう(注1)。
キャップ・アンド・トレードでは、国が各企業に温室効果ガスの排出枠の上限(キャップ)を設定します。そして、上限より少ない排出をした企業Aが、それより増えた企業Bに排出権を売るという形の取引です。企業Aは、CO2を削減したことによって得た排出権を販売することで利益を得ます。一方で企業Bは、超過分の排出権を購入して負担を受け持つわけです。
温室効果ガスの中心はCO2で、これは化石燃料の使用と密接に結びつきます。この制度を導入することで、企業が省エネによるCO2の削減に動くことを狙っています。
■導入推進論のポイントは?
推進の主な論拠は、
A:温室効果ガスを減らせる
B:設備投資がCO2削減のために使われ、技術革新を促進する
C:市場メカニズムを使って企業の自発的活動をうながすため行政コストが節約される
という三点です。
【Aについて】
国が上限を設定することで、
・企業はそれ以上の量を出せなくなる
・その上限を厳しくすれば、ガスの排出を減らせる
・より多く削減すると儲かるため、企業が削減に動く
といったことが期待されています。
大気を汚染する窒素酸化物(NOX)や二酸化硫黄(SO2)について、アメリカでは排出権取引を1990年代に行いました。今でも市場は存在しています。そして、この時期から現在まで、汚染物質は半減しました。この経験を排出権取引の論拠にする人が多いのです。
でも、はたしてそれは正しいのでしょうか。面白い例があります。日本は1970年代に大気汚染物質の削減をほぼ完了していました。排出権取引は当時ありません。「汚染物質を出してはいけない」という直接規制、補助金、企業努力で削減が達成されました。
アメリカも排出権取引と直接規制を併用しています。SO2とCO2の削減とを単純には比較できませんが、排出権取引が物質を減らす唯一の政策ではないと分かります。
【Bについて】
EU企業の設備投資が温室効果ガスを削減する方向に向いている。これは確かにそうです。しかし、それが排出権取引だけでうながされたものであるのかどうかは疑問です。
風力や太陽光発電など、再生可能エネルギーの使用や電源の転換がヨーロッパで急拡大しています。これには、そうしたエネルギーへの強制買い取り制度という政策の後押しが影響しています。
EU-ETSは、2005年に始まったばかりで早急な判断をするべきではないかもしれませんが、今のところ排出権取引によって技術革新が起こったとは観察されていません。
【Cについて】
EUでは行政の手間は、それほど軽減されていないようです。市場メカニズムが動く前に排出枠で問題があるためです。
CO2の排出枠を設定することは、化石燃料の使用に上限が加わることを意味します。そのために、各企業はその導入に慎重になりますし、ライバル企業との間での公平を求めます。実際には、その配分に際してかなりもめるはずです。
日本政府は「EU-ETS域内排出量取引制度に関する調査報告書」(注2)を公表しています。そこでは、各国とも自国内の企業で排出枠の設定に苦労しているとのヒアリング結果が出ています。
その結果はどうなったのでしょうか。EU諸国は、第1フェーズ(2005~2007年)、第2フェーズ(2008~2012年)では、各国と企業の排出枠の設定を緩くしました。その結果、排出権取引の規制を大半の企業が簡単に達成しています。そのために、この制度による温室効果ガスの削減効果は顕著に現れていません(注3)。
EUは、この制度を2013年以降に見直すことを表明しています。他国が見直す制度を、これから日本で導入することに意味があるのでしょうか。
■仮に日本で導入すると・・・
仮に日本で排出権取引が導入されたらどうなるでしょうか。既に日本企業のエネルギー効率は高いため、さらに一段のCO2の削減は難しいとされています。そのため、取引市場は排出権の「買い手」だらけになるでしょう。
また、上限の設定は政府によって行われます。政府による新たな「統制」ということになりますし、調整は難航するはずです。さらに、日本の産業界のライバルである中国、インド、アメリカの企業には排出枠がありません。
排出枠を設定することで、CO2の削減を各企業が意識するようになった心理的効果など、EUでは多くのプラス面も出ています。そのメリットは冷静に評価しなければなりません。ただ、日本にとっては今の時点でデメリットがメリットより大きいのではないかと私は思います。導入の結論を急がずに、もう少し産業界の意見を聞き、国民的な議論を深めた方がいいのではないでしょうか。
EUが排出権取引制度を広げようとするのは、自らのルールを世界標準にすることで、自らが温暖化問題での「覇権」を握ろうとしているのです。日本の強みは企業の技術力、そして得意技は「省エネ」です。そうした強みを活かす制度を考えなければなりません。
■空気に流されずに冷静な議論を
「空気」――。評論家の山本七平氏は、日本で物事が決まるとき、その場の雰囲気が一番影響を与えると喝破しています(注4)。今のテレビや広告には「エコ」という情報があふれ、「温暖化防止のために何かをしなければならない」という空気が社会に充満しています。
「市場を作る」という目に見える効果を持つ排出権取引に関心が集まることは分かります。しかし、早急な導入の結果、日本の産業界がダメージを受け、それによって私たちの生活が脅かされる、といった事態は避けなければなりません。
「空気」に流されず、利害得失を見極めた冷静な議論が行われることを望みます。
【注1】排出権には、京都議定書で決められた国家間取引、また京都メカニズムの上で作られたCDMの流通など、さまざまなものがあります。これらについての説明は今回は省略します。
【注2】EU域内排出量取引制度に関する調査報告書(PDF)
【注3】以上の排出権取引の問題点は「これが正しい温暖化対策」(杉山大志編 エネルギーフォーラム)を参考にしました。
【注4】「『空気』の研究」(山本七平著、文春文庫)
石井孝明の「温暖化とケイザイをめぐって」
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