「温暖化の解決策は原発」か?〜作られなかった合意形成の場【その2】
2008年5月 1日
(これまでの 石井孝明の「温暖化とケイザイをめぐって」はこちら)
■原発「対話集会」の光景
しかし、原発の反対派にも多くの問題がありました。
ある経験を紹介してみましょう。1998年に私は大阪で関西電力が初めて行った原発反対派の市民団体との「対話集会」を取材したことがあります。当時は一度使った原発の燃料を再処理したMOX燃料(処理済み核燃料)を発電に使う「プルサーマル計画」が検討されていました。ちなみに同計画はまだ実施はされていませんが、いくつかの原発で準備がなされ、青森県六ケ所村では2008年から再処理施設の稼働が予定されています。
集会で電力会社側はプルサーマル計画の意義を論理立てて紹介していました。しかし市民団体側の出席者は「福井県の原発が爆発したらどうなるか」という非現実的な主張を行って、電力会社側へ罵声を浴びせていました。質疑応答の場面では、活動家とも思える女性がマイクを占領して演説を始め、電力会社の出席者を罵ったあとで、「市民がエネルギー政策を決めなければならない」と叫び、関係者とみられる人々の喝采を集めていました。
私は罵声に不快感を覚えながら、福井県の原発近くで旅館を営む人に取材したとき、反対派について語った言葉を思い出していました。「勝手に都会から来て、勝手にしゃべり、勝手に去って行った」。反対派の語る「市民」とは誰なのか。そして、電力会社の社員を怒鳴ることで何を成し遂げようとしているのか。こうした疑問が頭をよぎったのです。
原発に関する電力会社と反対派の集会を東京などで二回ほど取材したことがありますが、よく似た混乱状況になっていました。そのためでしょうか。エネルギー・温暖化をめぐるシンポジウムは増えているものの、相互理解を図る対話の機会は最近少なくなっているようです。
■実現を考えない理想論は力を持たない
日本の原発反対運動は、その主張がエネルギー政策に反映されませんでした。もちろん対話の窓口を閉ざした推進派に責任があるでしょう。一方で、反対派にも問題はあったと、私は考えています。
前述の集会の一例を取り上げて原発の反対派が「全てそうだ」という単純な結論を導くつもりはありません。ですが反対派の人々の話を聞くと頻繁に出会う傾向があります。理想論ばかりを主張して、その主張の実現可能性に配慮をしていないのです。そして自分たちが社会を代表しているとの「錯覚」を持っている人も一部にいました。原発反対派が政策への影響力をあまり持たなかった理由は、ここにあると私は考えています。
1億2千万人が使う膨大な日本のエネルギー需要を原発なしにどうするのか。説得力のある提案は、反対派からいまだにありません。「私は社会の代表で、理想を示した。実現するのは他の誰かだ。私の言うとおりにしない政府と電力会社が悪い」。こうした態度が反対派にあったから、人々の原発に対する疑問を社会的力に結び付けられず、政治的な力を生みだせなかったのでしょう。
もちろん、口先だけの「評論家」だらけで、言葉だけが踊り改革の進まない日本の現状を見ると(典型的口先稼業「記者」である私も含め)、原発反対派にこうした批判をするのは酷かもしれませんが……。こうした反対派の政治力の乏しさと態度が、推進派が「原発を作り続ける」という行動を続けられた一因になったと思います。
政治的主張は実現してこそ意味があります。記者として政策決定の舞台裏を垣間見たことがありますが、政策の実現は大変手間のかかる作業です。理想を示すことは大切であるものの、その設定に必要なエネルギーは全体の労力の一割程度でしょう。
サポーターを増やし、世論を作り上げ、政治と行政の「内在的論理」にまで踏み込んで説得して、反対派にも利益になる状況を作り出す。そうしなければ物事は変わりません。それまでの政策の構造の中で利益を得ている人がいる場合には、当然、問題は複雑になり、抵抗は熾烈になります。そして事前に考えた理想像が、正しいとは限りません。実現しても負の側面が現れてきます。
行動の覚悟のない主張は、聞く人の心の琴線に触れることはないし、現実の力とはなりません。
■「使われ方」の議論がない社会
エネルギー政策をめぐる合意を形成する場がこれまで作られなかったのは、原発をめぐる対立が背景にあるように思います。
筆者も含めて国民の大多数は、原発について「あるのだから仕方がない」という構えでした。原発の廃棄物の処理、原発立地場所の住民の合意形成、非民主的なエネルギー政策の意思決定過程など、批判が1970年代から示した問題に推進派は今でも答えを出していないため、不安を覚えます。相次ぐ原発トラブルには失望します。一方で電力がすぐに使えるという現実を享受する以上、原発に対する批判をしても仕方がないでしょう。このような「不安を持ちつつ容認する」という姿勢は、平均的な態度ではなかったでしょうか。
多数の国民が積極的にエネルギー問題に関与せず、原発をめぐり推進派と批判派の根深い対立があります。その状態を放置して、推進派により原発が作られ続けました。その名残りが、エネルギー政策が閉ざされた場で決まる状況を生んでいるのです。
その結果として、大多数の国民はお金を払って、エネルギーを買いさえすればよいという単なる「消費者」になってしまいました。エネルギーをどのように作り、どうやって使うかという国民的議論も行われてきませんでした。日本国民の大半は公の意識を持ち、高い見識を持つ人々です。その人々が意見を表明し、合意を集積する場がないのです。
これは原発が社会に与えた負の側面です。そしてそれは温暖化対策にも悪影響を与えています。政府は、民主党に追い込まれる形で今年4月にガソリン暫定税率の引き下げを行いました。福田康夫首相は、「ガソリンの使用が増えて地球温暖化にマイナスになる」と、民主党の主張に反対しました。福田首相の主張は正しいものです。しかし、福田首相の「使われ方」の主張が、国民の心をとらえ、支持を集めることはありませんでした。政府が行ってきたエネルギー政策が、別の政策「温暖化対策」を進める上でマイナスになっているのです。
■温暖化対策で原発の失敗を繰り返すのか?
EU諸国では、エネルギー政策で、市民の影響力は大変強いものがあります。デンマークなど北欧諸国やドイツでは、市民投票の結果、1980〜90年代に脱原発を国策や地方自治体の政策とした例もあります。こうした社会に広がる意識を背景に、風力や太陽光などの再生可能エネルギーの積極的な利用など、市民の新たな意思が集積されて、斬新な温暖化対策が打ち出されています。
今までの政策の延長の中で地球温暖化問題が語られ、原発が日本の温暖化対策の中心となった場合はどうなるのでしょうか。
これまでと同じように国民の意見を集約できず、対立のみが強調されかねません。政策の決定過程の中で多様な選択肢が示されることもなく、深い検討のないまま一部の人間の合議で温暖化問題の対策が決まってしまうかもしれません。そのような未来像が懸念されるのです。
同時に温暖化問題を語る場合に「理想論」が先行する傾向があることにも私は懸念を覚えています。そして原発反対派から受けたものと、非常によく似た感想を抱くことがあるのです。ある温暖化問題のNGO(非政府組織)の主宰者が、このように話していました。「市民がエネルギー政策に関与して、温暖化問題を解決しなければならない」。10年前の疑問を、私は再び感じました。「この人のいう『市民』とは誰なのか。誰を代表しているのか。どうやって自分の理想を政策に結び付けるのだろうか」、と。
国民の合意を集積し、合意する場がなければ、政策は力を持ち、効果を上げることはできないでしょう。「エネルギー対話の場が作られなかった」という原発で経験した失敗を温暖化問題で繰り返してはなりません。
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