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石井孝明の「温暖化とケイザイをめぐって」

温暖化問題と切り離せない経済。「お金」と温暖化の関係を追う。

「温暖化の解決策は原発」か?〜社会に与えた傷は何か【その1】

2008年4月24日

(これまでの 石井孝明の「温暖化とケイザイをめぐって」はこちら

■問題がある原発礼賛

「温暖化問題の解決策は原発だ」。政府、与党政治家、財界などで、この意見が強まってきています。そして、世界でも原発を再評価が進んでいます。CO2を発電に際して、出さないためです。

日本政府・電力会社は国内原発の稼働率の向上を図ることに加えて、新規の建造も国が後押しする姿勢を見せています。

私は、原発は温暖化問題での一つの解決策という点には同意します。しかし、それは再生可能エネルギーの振興など同時に進める対策の一つにすぎないこと、バックエンドコスト(処理費用など)、経済性や効果などあらゆる側面から原発の負の部分に注目しなければならない、という条件のついた同意です。

原発は日本で、温暖化問題にある面から悪影響を与えていると、私は考えています。それは「エネルギー政策で、国民の参加の場がない」という状況を作り出した点です。そのため、政治上の関心を集めず、有効な対策を打ち出せていません。

原発の経済性の問題は、機会を改めて論じたいと思います。ですが、社会に与えた影響の点から、今回は皆さんと考えたいと思います。

結論を言いましょう。原発をめぐる賛成と反対という1970年代に始まった対立を日本は今でも克服しきれていません。エネルギー政策が閉鎖的な空間で決められるようになったのは、それが一因です。国民全体の参加が必要な温暖化対策が、日本で遅々として進まない理由は、エネルギー政策がこうした閉ざされた場で決まるためです。原発のもたらしたその問題を解決しない限り、「温暖化問題の解決策は原発だ」と軽々しく判断してはなりません。私はこう考えています。

■原発が生んだ社会の対立

温暖化問題は解決に向けて国民各層の協力が必要です。CO2の排出は国民生活や産業活動に密接にかかわり、「国民一人ひとりが排出源」であるためです。本当の温室効果ガスの削減は、「政府任せ」では達成できません。国民の負担が必須です。

しかし、エネルギー政策をどうするかについて国民の意見を集約し、合意を積み重ねるという場が、日本にはありません。仮に日本でこれまで国民がエネルギー問題を監視し、意見を集約する場があったなら、京都議定書や温暖化対策の光と影を詳細に分析することができたでしょう。そしてヨーロッパのように政治上の焦点になり、国民の合意を前提にして、負担も含めた有効性のある政策が既に打ち出されていたはずです。しかし、日本では温暖化問題に対する有効な対策も、国民の合意もないまま、議定書の定める2008年からの第一約束期間を迎えました。

私はこれに原発が影響していると考えます。これまで、日本のエネルギー政策を語る場合には、原発に賛成か、反対かという単純な二部論がまず行われ、相互にレッテルを貼りました。そして、対立点を埋めることもなく、政府・電力会社といった推進派によって、閉ざされた場でのエネルギー政策の意思決定が行われてきました。

原子力は、1990年代まで日本国憲法や自衛隊の合憲性と同様に、社会の「踏み絵」となり、亀裂の一因となりました。冷静な議論と国民の合意の集約が求められるべきエネルギー問題でこのような混乱が生じたのは、日本にとって不幸でした。

もちろん、日本のようにエネルギー資源が皆無で、大量の電力需要がある国では、供給手段として原発が注目されたことは理解できます。しかし、批判派からの防衛が政策の大きな要素となった結果、推進派は狭い世界に閉じこもり不透明さを放置したまま、1980年代に至るまで原発を作り続けました。2000年代に続けて発覚した東電をはじめとする電力会社をはじめとする一連の原発トラブル隠しの不祥事のように、国民から遊離した運営実態をもたらしました。

国の原子力委員会発行が発行する2003年の『原子力白書』では、国民の原子力に対する信頼感が失われたことを認め、「国・事業者と国民の相互理解」を強調していました。ところが、エネルギー価格の高騰と温暖化問題という追い風が吹き始めます。06年に発行された『白書』では、一読すると「原子力への期待」ばかりが強調されています。こうした負の側面の検証のない評価は、危険なものを感じます。

合意をすり合わせ、負担を受け入れる場を作り、国民の意思と工夫をエネルギー政策に反映させる。残念ながら、日本ではそうした取り組みは行われているようには思えません。

■原発推進派の本音とは?

そうした対立の結果、原発の推進派と批判派の間には、根深い不信感が醸成されたように思えます。

私は経済記者の経歴の中でエネルギー問題を見てきました。ある電力会社の首脳から、「私たちは罵声の中で日本のためだと信じてもくもくと原発を作って運営してきた。私の子供は幼いころ、スリーマイル島の原発事故(米国、1979年)の直後、父親が電力会社に勤めていることを理由にいじめられた。男が正しいと信じていることをやっているのに、ののしられる悔しさが分かるか」と、原発の反対派に対して憤りに満ちた発言を、聞いたことがあります。

冷静な対応が求められているこの問題を、感情的にとらえる態度に驚いた記憶があります。ただ、この人の怒りの通り、原発に対する社会の目は厳しく、当事者からすれば時には不当な批判が出た面はあったでしょう。

経済産業省、電力会社、学者などの「推進派」とされる人々の話を聞くと、「反対派」に対する不信感を頻繁に聞きます。「彼らは一種の『宗教』なんですよ」「○○党の関係者が入り込んでいるんですよ」という発言を、関係者から何度も聞いたことがあります。

原発問題については、政治的な意図を持って加わる人がわずかにいることも確かですが、反対派の主張は多様です。原発の地元住民、都市住民、自然エネルギーを取り入れたいという人々など、さまざまな考えを持って、原発に異議を唱えています。そして自分や次の世代が抱える核の重荷に、当然の不安を感じています。

「エリート」と社会的に分類される推進派の人々が、原発への異議に不信感、さらには冷たい感情を向けて、「分かり合おう」という意欲を持っていない。「全員がそうだ」とは言わないまでも、こうした反応に取材の中で何回も出会ったことに、私は残念さを覚えてきました。

「大半の推進派の深層心理を、ひとつひとつ皮をはぐように分析すると、『選民意識』や『愚民観』という、ヒトラーのナチズムにつながるような恐ろしい意識にぶつかる」と、あるエネルギー政策の研究者が言っていました。そうではないと、私は思いますが……。

しかし、反対派にも多くの問題がありました。【つづく・全二回】

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プロフィール

石井孝明(いしい・たかあき)

経済・環境ジャーナリスト。1971年生まれ。時事通信社、経済誌フィナンシャル ジャパンの記者を経てフリーランス。著書に『京都議定書は実現できるのか〜CO2規制社会のゆくえ』など。ご意見・ご感想はこちらまで。