脆弱な日本の「食」を、温暖化が脅かす〜農業への悪影響が始まった
2008年2月 7日
(これまでの 石井孝明の「温暖化とケイザイをめぐって」はこちら)
中国産冷凍食品から殺虫剤成分が検出され、10人の方が中毒の被害にあいました。被害者の皆さんの一日も早いご快癒と、事件の究明を祈ります。この事件によって、私たちが普段何気なく口にする食は、安全性、さらには安定的な供給という点で、非常にリスクがあると改めて認識しました。実は食のリスクに温暖化が影響を与えています。
■「あきたこまち」の魅力が消える?
「雪がないんですよ」。秋田市内で米穀店とネットショップの経営をする本田正博さんは、窓の外を見ながら話しました。取材をしたのは二月初頭ですが、秋田市内の積雪は数センチしかありません。「私の子供のころは毎日雪が降り積もっていたのですが、気持ち悪いですね」と30代の本田さんは、自らの短い人生の中で体験した変化を戸惑っています。本田さんは大手IT企業で働いた後で、70年以上の歴史を持つ家業のお米屋さんをつぎました。
「あきたこまち」という、お米を知っていますか。秋田県の農業試験場が1982年に開発した米です。2008年初頭の段階で10キログラム4000円台と、同5000円前後の高級米コシヒカリなどと比べると、安いのにおいしい米とされます。秋田県には平安朝の絶世の美女である小野小町の出生伝説があり、美人郷としても知られています。秋田出身の女性は「秋田小町」と形容されてきました。あきたこまちはネーミングのかわいさと、県と地元の農業関係者が一体になった販売促進キャンペーンを行ったため、2000年前後には全国的な人気となりました。
しかし、ここ数年の人気はいまひとつで、余り気味となっています。その理由は本田さんによれば、「豊作が続きすぎた」ことにあるといいます。供給過剰で値段が下がったことにくわえ、品質も劣化しているのです。
秋田県の積雪量は年々減り、そのため春先の田植えシーズンで米作りに必要な水がなかなか確保できないそうです。加えて、8月には30度以上の高温がかつては数日だったのに、ここ数年は10日以上の日が続きます。こうした気候の変化が、たくさん取れても品質の低下を誘っているようです。数年前までは県の南部地域がいわゆる「特Aランク」の米を多く作っていました。最近は県北部の産地の評価が高まっているそうです。つまり適産地が北上しているようで、奇形粒などもかつてより増えました。水の温度も南部では、ここ数年上昇しているようです。
「あきたこまち」の元気のなさは、地域の経済や社会に、影を落としています。秋田県は自殺率が全国1位を占め続けています。統計がある2005年まで10年連続でした。もちろん人間が死を選ぶ理由を軽々しく論じてはいけませんが、「米価の低下による生活苦で自殺した」という話が、口伝えで頻繁に流れているそうです。こうした状況は、地域社会を健全にするとは言えません。
秋田県は日本の農業政策の矛盾の象徴を抱えています。県北の八郎潟では大規模干拓が昭和40年代まで行われました。戦争直後の食糧不足の記憶がなまなましかったため農業へのテコ入れが続き、大規模農地を持つ農家の育成が国の主導で行われました。ところが、産業構造の変化で都市部への人口流出が続いたことにくわえ、日本人の食生活の変化によって米価の下落が40年代から生じてしまいます。大規模農法による稲作の夢を抱いて入植した大潟村の人々は夢破れ、今、大きな失望を感じているそうです。本田さんは大潟村をはじめ秋田県の農家の皆さんの苦しみを頻繁に聞いています。
これは米穀店の経営にも影響します。都市部以外で広がる格差問題も影を落とし、秋田県は今一つ景気が悪いそうで、お客さんはそろって安いコメを買います。本当にいいもの安全・安心を求める消費者も県外には多いそうですが、「全国レベルの競争だと、コシヒカリがやはり好まれます」と話していました。
しかし悩んでばかりはいられません。本田さんはネットショップや秋田の街起こし活動もしています。またコウノトリの自然生息で知られる兵庫県豊岡市産の、減農薬コシヒカリを使った『赤ちゃんの重さで届ける出産内祝いのお米』を08年1月から販売しています。幸せと赤ちゃんを運ぶコウノトリというこのアイデアは本田さんが自らの子供の出産に立ち会ったことから生まれたそうです。「次の世代のために、何かできるビジネスを探したい。しかし、温暖化を防ぐために私が何をできるか、まだわかりませんね」と本田さんは話していました。
■各地でみられる適産地の移動
秋田県で本田さんの体験している米を取り巻く環境の変化は実は日本の各地で起こっています。官公庁資料や各種報道から、米をめぐる状況を列挙してみましょう。
▼北海道産米はこれまで安い価格に抑えられていました。しかし、適産地は大きく変わり続けています。道産米の「ほしのゆめ」「きらら397」は品質も改良され、あきたこまちより高い値段で取引されることもあります。
▼九州の作付面積の6割を占めるヒノヒカリを中心に生育障害が避けられなくなり、暑さに強い新品種の開発を加速しています。農家の間でも栽培品種を新開発のニコマルに転換する動きがあるようです。また九州各地では、降雨パターンがこれまでと違うため、稲作用の水不足の動きが広がっているそうです。
▼人気米コシヒカリの適産地は、新潟、富山、福井の北陸三県で、その北限は10年前まで新潟とされていました。しかし、最近北上し秋田県では、転作を検討する動きもあるようです。
日本の主食の米は、粘り気があり、丸みのあるジャポニカ種でした。それが西日本でとれなくなり、細長くバサバサしたインディカ種に転換してしまうかもしれません。
米だけではありません。みかん、リンゴなどの果実、日本茶などの適産地が次第に北上しています。たとえば、日本茶は秋冬の平均気温が平均で1〜2度上昇するだけで、茶の生育がおかしくなります。京都や静岡などに産地が偏在しています。特殊な栽培方法、製造技術、工場など、お茶産業を支えるインフラは産地にしかありません。こうしたものは、気候変動で簡単に移すことはできないのです。
日本はカロリーベースでみると約4割の食料自給率しかありません。総労働人口6330万人のうち、農業従事者は268万人と約4%にすぎません(2000年調査)。そして、60歳以上の人が6割を占めるなど、高齢化が進行しています。そうした、脆弱な基盤の日本農業が温暖化によって弱体化しかねないのです。設備投資を含む温暖化への対応よりも、「廃業」の選択肢のほうが、合理的かもしれません。
日本で食の安全は非常に脆弱で、そのリスクが温暖化によって拡大している。この現実を、私たちはしっかりと認識するべきでしょう。
石井孝明の「温暖化とケイザイをめぐって」
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