もしも競争がなかったら?
2007年11月19日
(これまでの 飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」はこちら。)
競争は利潤をすり減らす。そして利潤を維持するために、さらなる競争へ身を投じる。競争は無間地獄です。そのため、我が国では十年ほど前までは「競争」と言えば「悪」と相場が決まっていたもんです。しかし、小泉政権発足以降、競争という言葉がポジティブなイメージを伴って使用されることが多くなっています。その一方、昨年半ばあたりから再び競争の問題点に再注目が始まっているような……。
このような世論に惑わされる(?)ことなく、馬鹿の一つ覚えのように競争賛美を続けている連中が居ます。そう。経済学者です[*1]。僕も一応はその端くれです。経済学者はなぜそんなにも競争が好きなのでしょう?
経済学者の理想の世界
これは、経済学者の判断基準そのものに根ざしていると考えられます。経済学者の考える理想の状態をもっともクリアに示しているのは、ジェレミー・ベンサム(1748-1832)の「最大多数の最大幸福」というテーゼです。これは「個人の幸福の総計が社会の善し悪しの評価基準だ」という意味です。「幸福が足し算できるのか?」という疑問はさておき[*1]、個人の幸福の合計を増加させる……つまりは、社会をよりよい状態にもっていくにはどうすればよいのでしょう。
ごく単純化すると、すくなくとも経済生活に関しては「よりよいものを、より多く、より安く」入手することで個人の幸福は増加します。したがって、社会全体によりよいものが、より多く、より安く取引されるようになれば、幸福の合計も増大するでしょう。
このような価値観に従うと、競争の意味が明らかになります。競争状態にある市場では「よりよいもの」「「より安いもの」でなければ需要を引きつけることが出来ません。品質は高く、その販売価格は安いわけですから製品一個あたりの利益は極めて低いものになります。その結果、より多く売らなければ企業は立ちゆかなくなってしまいます。そして、高品質低価格なわけですから消費者も十分な支出を行うことになるでしょう。したがって、企業間の競争地獄こそ、経済学者の(そして消費者にとっても)理想の社会を達成する近道と言うことになるのです。
このような価値観から、経済学者は競争こそが世の中をよくする原動力であると考えるに至るのです。
経済学と経営学の視点
経済学と経営学は方法論や用語法の点で兄弟のような位置づけにある学問です。かつては「経営学」を「企業経済学」と呼ぶ学派もあったくらいです[*2]。その一方で、経営学の目的意識は経済学とは全く異なります。経営学が考えるのは、あくまで「ある企業」の利潤向上のための技法であって、経済厚生・社会全体の幸福といった抽象的な課題ではありません。
すると、経済学者が賛美する競争状態は、経営学者にとっては利潤の増進が難しい、目指すべき理想とはほど遠い環境に他なりません。そこで、経営学が目指すところは「競争の無間地獄からいかにして逃れるか」という問題になるのです。
競争から逃れるためにはどうすればよいのでしょう。第一の方策は権力・法・制度をもって競争がない市場を作り上げることです。企業にとって最も多くの利潤を生むのは独占状態です。独占ほどではないにしても、潜在的な新規参入者がなくごく少数の企業によって市場が分割されているよな寡占状態も、その競争圧力は微弱で企業にとっては居心地の良い環境でしょう。このように他社・潜在的なライバルがいない状態での企業活動は極めて容易です。
現在の日本では地上波テレビ放送のチャンネル数は完全な規制下にあり、新局の開設は容易なことではありません。その意味でTV事業は非常に「おいしい」業務です。このような“Heaven”を崩さないためにも新参者を許すことは出来ないのです。メディアの寵児であった堀江貴文氏が、一夜にして許されざる存在・全国民の敵として扱われるようになったのも、寡占状態にあるTV事業に参入を試みた報いだと考えられます。
このような権力・法・制度による競争の回避は個別企業の経営戦略としては非常に重要です。しかし、政治権力へのアクセスが容易な一部の産業を除くと、政治を左右して自社、並びに同業他社の権益をまもるような芸当はできません。
そこで登場するのが、近代的な経営学です。独占を市場外の力によって維持することは出来ません。すると、各企業が目指すところは独占・寡占は無理でも、ギリギリの価格水準で戦い続けるような競争だけはさけるという選択肢です。
近代的な経営学の仕事は、政治・法といった政治外の力に頼らない競争回避の方法を考えるところにあります。経営学の命題を学ぶ際には「競争は利益を生まない」ので「いかにして競争を避けるか」を理論化しているのだという視点を持つと、その意義を理解できるようになるでしょう。。
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*1 少なくとも効用が基数的(足し算できる)か序数的(足し算できない)かは19世紀後半以降の課題ですし、序数的だとしても説明が難しくなるだけで競争が状況を改善する点は同じです。
*2 主にドイツ経営学の一派は企業経済学という呼称を用いていたそうです。ただし、現在では企業経済学というとミクロ経済学の応用分野を指すのが通常です。
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