岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』から、情報社会について考える(2)
2007年10月18日
■その2-1. 鈴木カーニヴァル本の概略:「反省から再帰へ」
([その1]からの続き)
このように、岡田氏の『いつまでもデブと思うなよ』の特徴は、「意志からインセンティブへ」とダイエット方法論の重点をズラしている点にあります。そしてこの重点移動は、――「たかがダイエットの紹介本じゃないか」と思われるかもしれませんが――筆者は(情報)社会論の観点から見ても興味深いと考えます。それはどういうことでしょうか。
この点を論じるための補助線として、鈴木謙介氏の『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書、2005年)を紐解いてみましょう。この書籍では、2ちゃんねるやW杯に見られる「祭り」現象から始まり、「若者論」的な「ニート・フリーター問題」に「ケータイ的コミュニケーション」、そして「監視社会論」と、さまざまな現代的事象が扱われているのですが、鈴木氏はこうした現象の背景には、近年の情報技術の台頭による「自己モデル」の変化(*1)があると論じています。
それは一言でいえば、「反省から再帰へ」というものです。かつて近代社会においては、現実の社会を生きている自己に対し、そこから一歩距離を置いて、冷静に自己を見つめなおしたり諭したりする自己、つまり「自分を反省する自分」というあり方――「我思うゆえに我あり」といった自己観察――が理想とされていた。しかし、現代社会においては、情報空間上に記録されたコミュニケーションのログや消費行動履歴等をそのまま自己とみなす、「再帰」型の自己のあり方――「我は我なり」という短絡的な自己認識――に移行しつつあるのではないか。日記という「自己のテクノロジー」(フーコー)を例に挙げるならば、前者の反省型は「誰にも読まれることのない紙の日記に、赤裸々な自分の心情を書き付けること」を、後者の再帰型は「mixiやブログ上に日記を書いて、足あとやアクセスログをチェックすること」を指しています。
#ちなみに、上記の「自己モデル」の変化については、鈴木氏の近著『ウェブ社会の思想』(NHKブックス、2007年)の前半部で、ほぼ同様の論旨が展開されています。ここで「再帰」型と紹介した自己モデルは、同書では「<偏在するわたし>」――「わたしを表現するデータ」が、ユビキタスな環境の中であらゆる場所に立ち現れ、わたしより先にわたしを代弁してしまうという事態(P.83)――と表現されています。
それでは、なぜそうした「自己モデル」の変化が生じているのでしょうか。その大前提として、鈴木氏はギデンズやベックの「再帰的近代」や、バウマンの「リキッド・モダニティ」といった「社会モデル」の変化を扱う社会理論を参照しています。「再帰的近代」とは、社会が近代化することの「根拠」が自明ではなくなり――これは東浩紀氏のよく引く「大きな物語」(リオタール)のもはや共有されない事態とほぼ同義ですが――、近代化という事態それ自体が「再帰的」(≒自己言及的に)に参照されている社会モードのこと。そして「リキッド・モダニティ」(液状化する近代)とは、これまで社会の重要な構成単位だった共同体や組織や国家が溶解(≒機能不全化)し、個人という単位が頻繁に濫用される社会モードのこと。要するに現代社会とは、誰もが共有できる「輝かしい目的」が失われ、何でも「自己責任」として処理される社会である、といったような意味合いです。
こうした社会においては、人間関係や労働市場など、あらゆる場面で「自己決定」が求められるようになる一方で、その選択の「根拠のなさ(再帰性)」や「流動性(入替可能性)」が上昇するようになります。ここでは「人間関係」の例で説明しましょう:現代社会においては、AさんとBさんとが明日もまた親友/恋人/配偶者……である可能性がありますし、ウザイ奴/空気の読めない奴としてレッテルを張られてしまう可能性を常にはらんでいる。すると人々は、情報技術を使ってこの問題に対処するようになる。たとえばケータイ・メールの応酬やmixiの「足あと」を通じて、人間関係の「親密度」を維持・計測する。あるいは、普段は親しくもない匿名的な人々同士が、2ちゃんねる上の「祭り」(カーニヴァル)に参加して、刹那的に熱狂する。そこには、かつてであればがっつり共有されていた「同じ出身だから」「同じ国民だから」「同じ思想の持ち主だから」といった親しくなる/盛り上がるための「根拠」はないけれども、コミュニケーションの過剰なまでの加速的連鎖――「繋がりの社会性」(北田暁大)――は存在している(「繋がりの社会性」については本ブログの第6回でも触れました)。つまり、情報空間(データベース)上に記録されたログこそが、膨大な選択肢の中から任意の人間関係(コミュニケーション)を選択するための「根拠」として利用されているというわけです。
ちなみに鈴木氏は、こうしたケータイ/mixi/2chといったコミュニケーション・サービスをひっくるめて「データベース」と総称しているのですが、これは東浩紀氏と大澤真幸氏によるAmazonをめぐる議論(『自由を考える』(NHKブックス、2003年))を受けた表現になっています。同書で東氏と大澤氏は、Amazonというデータベースは、利用者の購買履歴を「監視」(記録)し、膨大な選択肢の中から何を欲望すべきなのかをフィルタリングしてやることで、人々の「積極的自由」(≒自己決定能力)を代理し始めている(*2)と論じています。そして鈴木氏によれば、一見すると「データベース」という語感のそぐわないケータイやブログやSNSといったコミュニケーション・メディアも、(機械によるレコメンデーションという側面こそないものの、)「監視(記録)が自己の欲望を生み出す」という点ではAmazonと同様だといえるのです。
■ その2-2. 岡田ダイエット本と鈴木カーニヴァル本の共通点―― 「GTD」・「PHR」・「Wii Fit」をめぐって
さて、ずいぶんと前置きが長くなってしまいましたが、本題はこの鈴木氏の論じる「反省から再帰へ」という図式が、どのように岡田ダイエット本と関係するのかにあります。
まず、表面的なレベルでの共通点について指摘していきましょう。岡田ダイエット本の提唱するダイエット法は、「反省から再帰へ」という「情報社会における自己モデルの変化」に見事なまでに対応しています。なぜなら「レコーディング・ダイエット」という手法のポイントは、「やせなければならぬ」というメタ自己による「反省」(意志)を経由することなく、ただひたすらメモに自分の食事行動を「記録」し、そのデータを「再帰」的に参照することで、無意識のうちにやせようとする行動習慣を身につけるところにあるからです。
すでに本書を巡る書評においては、小飼弾氏が「レコーディング・ダイエット」と「GTD」(ライフハック)の類似性について指摘しています。GTDというのは、「なすべき仕事のリストを何かに記録しておくことで、頭の中からなすべき仕事のことを追い出してしまう」(Wikipediaより引用)という仕事管理法のことです。そしてこのGTDを紹介する際には、次のような比喩がよく用いられます:「脳は《記憶装置》としては信頼が置けないから、その代わりに紙やToDo管理ソフトにタスクをすべて書き出しておこう。そして自分の脳は、これらのタスクを処理する《CPU》としての役割に専念すべし」といったものがあります。ここでいわれている「役割分担」は、まさにデータベースにひたすらに自己を記録することで自己同一性を保とうとする「再帰」型のアプローチそのものです。
また昨今の「医療IT化」の分野では、「PHR」(Personal Health Record:個人健康記録)や「Health 2.0」といったキーワードが注目を集めているそうです。これは要するに、これまで病院側が保存していたカルテや処方箋等の情報や、体重からアレルギー情報、さらには歩数計のログといった一連の医療・健康情報を、消費者が直接的に自己管理することによって、医療サービスのパーソナライゼーションや健康管理の効率化・最適化を実現するというもので、最近では「Microsoft HealthVault」(2007年10月公開)といった「PHR」向けのプラットフォーム・サービスが公開されています(*3)。おそらく「PHR」は、あらゆる生活上の個人情報・履歴情報をデータベースに保存・記録・管理する――ブログやSNSやSBSの究極の進化形ともみなされる――「ライフログ LifeLog」の萌芽的形態として発展していくことになるのでしょう。
ともあれ、こうした「PHR」型サービスと、岡田氏が提唱する「レコーディング・ダイエット」の相性が極めて高いということは、誰もが容易に想像されることと思います。岡田ダイエット本では、こうした「ネットワーク・サービスの利用」について、(カロリー計算を支援するサイトが便利といった点や、岡田氏自身がmixiやブログでレコーディング・ダイエットの経過報告をしたという点を除けば、)ほとんど触れられてはいないのですが、すでにその実例が存在しています。それが岡田氏の「レコーディング・ダイエット」を参考に開発されたという「いいめもダイエット」です。ただし、この件については、つい先日、岡田氏のクレームによって公開を停止したというニュースが報じられました(参照:アイデアに著作権なし……それでも「いいめもダイエット」サービス停止 - ITmedia Biz.ID)。
(その是非はここでは横に置くとして、)ここで着目したいのは、「データベース」へ情報を入力するインターフェイスです。「いいめもダイエット」の場合、「自分で食べた内容とカロリーの数字をケータイメールで送る」というものだったようですが、これは要するに、「メモとペン」を「ケータイメール」に置き換えただけの単純な仕組みです。これに対し、先日いよいよ発売日と価格が公表された任天堂の「Wii Fit」は、体重計と重心計測器を備えた「Wiiバランスボード」で楽しくエクササイズができるという点がウリになっていますが、これはいうなれば、「ゲーム」というデータ入力インターフェイスを通じて「PHR」を実現するアプローチと捉えることも可能でしょう。
それでは、今後訪れるであろう究極の「レコーディング・ダイエット」とはどのようなものでしょうか。それはおそらく、「メモを自分で取る」というわずかな労力すらも必要とせず、自動的に体重と食事内容がデータベースに記録されるような仕組みになるはずです。さらに将来的には、ゲームの「難易度設定」の要領で、消費行動そのものに制限をかけられるようになるかもしれません。例えば「ハードモード」のダイエット・プレイヤーは、一日の制限カロリー値を超えるような外食や買い物が強制的に=物理的に不可能になる――例えば電子決済手段と連携して、コンビニで一部の物が買えなくなったり、ファミレスで一部のメニューが選択できなくなったり、さらにいえば、その商品の存在すらも見えなくなったりする――といったように。ドゥルーズが想像したような、都市空間上のアクセス・コントロールが徹底された「管理社会」なるものは、案外このような形で実現するのかもしれない……などと夢想する今日この頃です(個人的には、いますぐにでもそんなシステムが欲しいくらいですが!)。
さて、岡田ダイエット本に関する話は、もう少しだけ続きます。
([その3]に続く)
* * *
*1. ここで紹介した鈴木氏の「自己モデル」の変化に関する論考は、東氏の主張する「規律訓練から環境管理へ」という《社会秩序モデル》上の変化を、(特に若者の)《心理モデル》上の変化にスライドさせたものとして理解できます。「規律訓練から環境管理へ」とは、第1回でも紹介したように、ポストモダン社会においては、個々人の《内面》的な規律規範に訴えかける統治(秩序付け)の方法から、個々人の《内面》には関与せず、ただそのように人々を振舞わさせる「アーキテクチャ(情報環境)」による管理手法が台頭しつつある事態を指しています。そして鈴木氏のいう「反省から再帰へ」という議論は、自己が自ら《内面》に関与することなく、情報技術という《外部》をただ参照することで自己を維持するという「自己のテクノロジー」(フーコー)が台頭しつつあることを論じるものとして整理できます。
*2. Amazonの例ではありませんが、「消極的自由」(≒選択可能な選択肢の数)の膨大さが、かえって人々の「積極的自由」(≒自己決定能力)を窒息させ、その機能不全を人々はフィルタリング技術によって補填している、という論旨については、同じく東氏の「情報自由論 第6回:フィルタリングされる自由」で展開されています。
*3. ちなみに、Googleも「Google Health」という「PHR」向けサービスの開発を進めていたようですが、この分野のマジックミドル的ブロガーである三宅啓氏によれば、その計画は頓挫したと伝えられています:「TOBYO開発ブログ - Health2.0の爆発とGoogleHealthの蹉跌」
濱野智史の「情報環境研究ノート」
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