このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』から、情報社会について考える(3)

2007年10月25日

■ その3-1. 「岡田ダイエット本」と「鈴木カーニヴァル本」のエンディング比較

前回論じたように、岡田ダイエット本で提唱される「レコーディング・ダイエット」という手法は、鈴木カーニヴァル本で論じられている「情報社会の自己モデルの変化」に関する命題、すなわち「反省から再帰へ」という流れに沿ったものとして捉えることができます。しかし、――ようやくここからが筆者の関心の中心になるのですが――興味深いことに、「再帰から反省へ」という点で共通する両書は、結果的にそれぞれ異なる結末へと向かっていくのです。それはどういうことでしょうか。ややアクロバティックというか、強引な引き付けになってしまうのですが、以下に説明してみたいと思います:

まず鈴木カーニヴァル本のエンディングから見ていきましょう。鈴木氏は、「反省から再帰へ」という自己のあり方は、必然的に「宿命論」という袋小路にぶつかると論じています。鈴木氏はこういいます。データベースに自分のあるべき姿が常に既に先取りして映し出され、それを淡々と選択していくほかない現代社会においては、人々は「どうせ自分の人生はこんなもの」といった狭苦しい世界観/人生観を抱いてしまう。こうした鈴木カーニヴァル本のストーリーは、いうなれば「反省から再帰へ、そして宿命へ…」とでも表現できるでしょう。

そして、カーニヴァル本の続編にあたる『ウェブ社会の思想』では、鈴木氏はこうした「宿命論」という絶望を打ち破るための処方箋として、「他者と関係することへの<宿命>」を選び取ることを提唱しています。いささか短絡的な要約になってしまうのですが、つまり鈴木氏は、どんな小さなきっかけでもいいから、ひきこもらずになんらかの関係を築いていけば、いつか希望が見つかるかもよ、というわけです。ちなみに、筆者がこの主張を見て感じたのは、要するにこれはサルトル風の「実存主義」――自らを宿命に向けて「アンガージュマン(投企)」せよ――の情報社会バージョンだということでした。とはいっても、あくまで鈴木謙介流アンガージェマンの動機付けは、サルトルの時代に構想されていたようなマルクス主義的な《大文字の革命》ではなく、「自己を閉じ込める宿命観を打破する」ための《小文字の革命》ではあるのですが。

これに対し、岡田ダイエット本はどのようなエンディングに向かっているのか。それは一言でいえば、「反省から再帰へ、そして奇跡へ…」とでも表現することができます。岡田氏がこの本で最終的に語りかけているのは、ダイエットによる「自己改造物語」です。というのも、岡田氏は、これまで自分は「オタク」だと世間からは認知されていると思っていたのですが、どうやらそうではなくて単に「デブ」だと思われていたということに、やせることで始めて気付かされたといいます。それが今回50kgのダイエットに成功することでそのイメージも刷新され、周囲からの評価も軒並み上がり、そして自分自身に対する自信もアップしたと語っています。そして岡田氏はこのエピソードを通じて、そもそも現代社会は、(ことの是非はともかくとして)「見た目主義社会」に突入しており、見た目ですべての言動が判断されてしまうほかないのだと説明する一方で、だからあなたもダイエットという手法を用いて自己イメージを改善し、「奇跡」を体験すべきであると読者に語りかけるのです。

――さて、両書の「エンディング」を比較することで、急速に議論が凡庸で陳腐な人生論へと突入してしまった感があるのですが、あえてまとめるならば、「反省から再帰へ」という命題の行き着く先として、鈴木氏は「実存主義=宿命へのコミット」、岡田氏は「奇跡主義=自己改造」へと至っている、ということができるでしょう。とはいえ、もちろんここで筆者は、前者と後者のどちらが人生論として優れているのか、といったようなことを話題にしたいのではありません。とはいうものの、すでにこの点については、岡田ダイエット本がいささか「宗教的」ではないかと指摘する書評も見られます。例えばfinalvent氏は、岡田氏の「奇跡」を語る論調が後半に行くほど「グル的」「宗教的」になると指摘しており、さらに栗原裕一郎氏は、小飼弾氏によってその類似性が指摘されていた「ダイエット」と「GTD」(ライフハック)は、いずれも歴史的に見れば「ニューエイジ・ムーブメント(ヒッピー文化)」を出自にしており、その類似が決して偶然ではないことを指摘しています。ここで付け加えるまでもなく、ニューエイジはオウム真理教のような新興宗教カルトを生み出した源流でもある以上、前者の「実存主義」のほうが、後者の「奇跡主義」よりも倫理的に優れている(というよりは「安全である」)と思われた方もいるかもしれません。

■ その3-2. 時間差がもたらす「意図せざる《反省》」

ただしここでは、あくまで本ブログのテーマ設定、すなわち「アーキテクチャ設計の可能性を読み解く」という観点から両者を比較してみましょう。すると、後者の「奇跡」型のアプローチのほうが興味深いポイントを含んでいるように思われます。それはどういうことか。確かに岡田氏のいう「奇跡」という表現は、いかにもうさんくさいものです。しかも、たかがダイエットで「奇跡」というのはいかにも大袈裟な表現ですから、余計にそのように聞こえてしまう。ただ、このように読み替えるとしたらどうでしょうか:岡田氏は、ダイエットをはじめる当初は「奇跡=自己イメージを書き換える」といったような自己改造的動機は全く持っておらず、単にゲーム的に体重が減っていくのを楽しんでいただけだったと語っています。それがダイエットを成功させることで、結果的に本人も予期しなかった形で、何はともあれ自己イメージが書き換わった。この「当初は予期していなかった」という点が重要です。つまりこれは、前回触れた鈴木カーニヴァル本の言葉を使えば、「自分を見つめなおす自分」が予期せぬ形で発生したという意味で、「意図せざる《反省》」とでも呼ぶことができるのではないか。

そのポイントは、レコーディング・ダイエットを実践する「再帰モード」と、自己イメージの書き換えが生じる「反省モード」の間に、数ヶ月間のタイムラグ(時間差)が生じた点にある。そもそも、「反省」すなわち「自己を見つめなおす自己」という体験が成立するためには、「見る自分」と「見られる自分」の間に《ズレ=時間差》が必要になります(*1)。その反省のためのズレを設けるためにこそ、かつては「日記」等の記録テクノロジーが用いられてきたわけですが、岡田ダイエット本のストーリーにおいては、ダイエットという手法それ自体が、必然的にこうした自己観察のための《ズレ=時間差》を用意したということができる(もちろんダイエットに成功すれば、という条件付きではありますが)。というのも、これはあまりに当然のことですが、ダイエットで見た目の印象が大きく変わるほどにやせるには、どうしても数ヶ月単位の時間がかかってしまうからです。そのタイムラグの発生こそが、結果的に「意図せざる《反省》」を呼び込む契機に繋がったといえるでしょう。

このように、筆者の(かなり強引な)読みによって、岡田ダイエット本から「意図せざる《反省》」という自己モデルが引き出されました。そのインプリケーションは次のようなものになります:情報社会においては、種々様々なデータベース・サービスによって、「自己」が常に再帰的に観察され監視されてしまう――「偏在する<わたし>」(鈴木謙介)――という状況にある。このような状況においては、かつて近代社会が理想としてきたような「反省」型の自己のあり方は居場所を失ってしまう。しかし、こうした状況下であっても、自己を認識する一連の流れになんらかの「時間差」をはさみこむことで、「意図せざる《反省》」とでも呼ぶべき自己モデルを立ち上げることができるのではないか。

筆者がこの命題に注目するのは、それが「時間差」というきっかけに基づいているからです。その理由を、筆者はいまはまだ大変抽象的なかたちでしか表現することができませんが、ここでは、本ブログの議論を振り返ってみるに留めておきたいと思います。非常におおざっぱな言い方をすれば、これまでIT技術(メディア)は、専ら「空間を超えてコミュニケーションを可能にする」という点にその特徴があるとされてきました。しかし、筆者の考えでは、昨今の情報環境(アーキテクチャ)は、むしろ「時間性の操作」という段階へと足を踏み入れています。その一例として、筆者はこれまで、Twitter(選択的同期)やニコニコ動画(擬似同期)やセカンドライフ(真性同期)といったソーシャルウェアの分析を通じて、アーキテクチャによる「時間感覚の《錯覚》の生成」という側面に着眼を置いてきました。それらのアーキテクチャは、「繋がりの社会性」をより一層強化するために、効率的に「現在(いま・ここ性)」を確保する――人々の間の《ズレ=非同期性》を埋め合わせる――イノベーションであると整理できるわけです。

だとするならば、これとは逆のアプローチ、すなわち「意図せざる《反省》」を生み出すような《ズレ=時間差》を、錯覚的に感受させるようなアーキテクチャの設計もまた可能なのではないか。これが筆者の考えです。

* * *
*1. 見る自己と見られる自己の間に横たわる《ズレ=時間差》こそが、「反省」的に自己を捉える契機となるという論点については、カントの「統覚」をめぐる議論(浅田彰+大澤真幸+柄谷行人+黒崎政男(1995)「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」『InterCommunication』12号)と、そこでの議論を受けた大澤真幸氏『電子メディア論』(新曜社、1995年)での考察(P.12-P.20)を参照のこと。ちなみに大澤氏は、「電子メディア(=データベース)」によって、「時間差」を完全に抹消した完璧なる社会秩序状態(=直接民主制)を実現することは、かえって「統覚≒第三者の審級」を喪失させるだろうと論じられています。最後に示唆した筆者の発想は、こうした「直接民主制=時間差の抹消」とは逆の方向性、すなわちアーキテクチャによって《ズレ=時間差》を生み出すというものになっています。

フィードを登録する

前の記事

次の記事

濱野智史の「情報環境研究ノート」

プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。