第17回 「マリオカート」と「ニコニコ動画」の共通点
2007年9月19日
(濱野智史の「情報環境研究ノート」」第16回より続く)
――ゲームから「情報環境=アーキテクチャ」を考える(1)
これまで本ブログでは、Twitter・ニコニコ動画・セカンドライフといった各種ウェブサービスについての論考を展開してきましたが、今回はその議論をいったん整理するために、ゲームの話を織り交ぜてみたいと思います。
以前筆者は、ニコニコ動画の「擬似同期性」の仕組みについて、「マリオカート」というレースゲームの「ゴースト」というシステムに喩えたことがあります(第13回)。振り返っておけば、ゴーストというのは、自分や第三者が過去にプレイした操作ログ(≒残像)を、「擬似ライバル」としてタイムアタックに参加させるこ.とで、いわば「擬似同期的」に対戦プレイを実現する仕組みのことです。ゲームに親しんでいる方であれば、これ以上の説明は不要でしょうが、念のために補足しておきましょう。
通常、二人以上のプレイヤーがゲームで対戦するとき、それは「同期的」に――テレビの前で、コントローラを握った二人がわいわいと対戦している様子を想起して下さい――行われます。これに対し、「ゴースト」という仕組みは、対戦相手はその場には存在していないにも関わらず、過去の自分や他人がプレイした「非同期的」なログを再現することで、仮想の対戦相手をゲーム空間上につくりあげます。この仕組みによって、プレイヤーは、あたかも他のプレイヤーとの「同期的」な対戦を行っているかのような感覚を得ることができるわけです。
ニコニコ動画の「擬似同期型アーキテクチャ」は、この「ゴースト」という機制によく似ています。これまで何度も触れたように、ニコニコ動画では、実際には各ユーザーからのコメントは「非同期的」に投稿されているのですが、それらのコメントは動画の再生タイムラインと「同期」して表示されます。この機制によって、ニコニコ動画の利用者は、実際には「同期的に」その動画を視聴しコミュニケーションを交わしていないにも関わらず、あたかも他のユーザーと同じ「いま・ここ」を共有しているかのような感覚を得ることができるわけです。この機制をもってして、筆者はニコニコ動画を「いま・ここ性の複製装置」であると表現しました(第12回)。
実はマリオカートには、こうした「ゴースト」の仕組み以外にも、「客観的には×××だが、主観的に見れば×××」というアーキテクチャ設計上のポイントを見つけることができます。この点について興味深い指摘を行っているのが、チームラボ社の猪子寿之氏です。猪子氏は、各所で任天堂のゲーム設計の素晴らしさについて触れているのですが、その一例として「加速ドリフト」なるものを挙げています。それは一言でいえば、「ドリフトをすると、機体はタイヤとの摩擦で減速するはずなのに、ゲーム上ではなぜか加速するように設計されている」というものです。この仕組みについて、猪子氏は次のように説明しています:
「もし、客観的な視点で見たならば、カーブを曲がるとき、例え華麗なドリフトをしたとしても、機体は摩擦で遅くならなければならない。プレイヤーの視点、つまり機体の外からの視点でみれば、特にそれは顕著にあらわれるはず。
「けれども、任天堂は、ここでもドライバーの主観的な気持ち、視点を表現しようとした。ドリフトをするために、ブレーキを踏み、ハンドルを回せば、窓から見える景色は、めまぐるしく回転し、まるで加速したような気持ちになる。つまり、ドリフトによる機体の加速は、主観的には、正しいとなる」
「IDG International Data Group AB Sweden + RESET media」に掲載されたインタビュー記事(日本語訳)
ここで注釈しておくと、上の「加速ドリフト」の紹介は、任天堂が1990年にスーパーファミコンと同時発売した、「F-zero」という記念碑的作品について語られたものです。しかし、正確には、初代F-zeroに「ドリフト」という仕組みは存在しません(おそらく「スライド(重心移動)」のことを指していると思われます)。さらにいえば、初代F-zeroでは、スライドをしながらカーブを曲がっても、実際にはスピードメーターの数字が加速することはなく、さらに長時間スライドすると、地面とこすれてしまってスピードメーター上でも減速してしまいます(念のため、Wiiのバーチャルコンソールでも確認しました)。これは推測ですが、猪子氏は、同じ任天堂の作品であるマリオカートの「ミニターボ」か、あるいは後代に発売された「F-zero GX/AX」の「ドリフトターン」という仕組みと混同されているのかもしれません。これらは、ドリフトでカーブを曲がっている最中に、特定の条件を満たすと機体のスピードがグンと加速するという仕組みになっており、上の猪子氏の説明がほぼそのまま当てはまります。
細かい話はさておくとして、上のような「加速ドリフト」というゲーム上の演出は、現実の物理法則から見れば「ありえない」ものです。猪子氏も説明するように、ドリフトという現象を「客観的」に見れば、タイヤの摩擦によって、機体のスピードは直進時よりも遅くなってしまう。しかし、ドリフトという現象を車内から体験している、ドライバーの「主観的」な視点から見れば、「窓から見える景色は、めまぐるしく回転し、まるで加速したような気持ちになる」。そこで宮本茂氏率いる任天堂の開発チームは、より迫真的なスピード感をプレイヤーに与える(錯覚させる)ために、ドライバーの「主観的」な体感をアーキテクチャ上で正当化/現実化する、「加速ドリフト」という仕組みを実装したというわけです。これはいいかえれば、ゲーム画面の外側に位置するゲームプレイヤーの「客観的視点」に、ゲーム画面の内側に位置するドライバーの「主観的視点」を《錯覚》させる仕組みということができるでしょう(*1)。
以上の議論をまとめてみます。いささか抽象的な表現になってしまいますが、筆者の考えでは、「情報環境=アーキテクチャ」の可能性の一つは、こうした「客観的には×××だが、主観的に見れば×××」といった《錯覚》を実現する点に認められます。例えばニコニコ動画の場合、「擬似同期性」という《錯覚》の効果によって、「非同期型コミュニケーション」と「同期型コミュニケーション」双方のメリットを両立する(あるいは双方のデメリットを打ち消す)ことに成功していますが、今後もソーシャルウェアのイノベーションは、いわばこうした「《錯覚》の技術」によって生み出されるのではないでしょうか。
さらにいえば、こうした「《錯覚》の技術」は、今回触れた「マリオカート」のように、過去のゲームの中にその多くの具体例を見つけることができるはずです。というのも、現在、(主に欧米で中心的に開発されている「FPS」と呼ばれる)3D系ゲームの開発手法においては、ゲーム画面内の「影」をリアルに生成するための手法や、「暗いところから急に明るいところに出ると視界が白ばむ」といった人間の視覚メカニズムそのものを再現する「HDRレンダリング」(の「動的露出補正付きトーンマッピング」)と呼ばれる手法等(*2)、現実の世界をひたすらに《模倣》しようとするアプローチが主流になっています。これに対し、「旧世代」(ここではざっと「プレステ」や「Nintentdo 64」等の3Dゲーム以前を想定しています)のゲームというのは、技術的な限界から現実世界を《模倣》するほどの表現力を持ち得なかったがゆえに、《錯覚》によってプレイヤーを仮想世界に没入させようとする技術が彫琢されたといえるでしょう。したがって、むしろ旧世代のゲームのほうが、上に見たようなアーキテクチャの可能性の「種」を再発見しやすいのではないか。これが筆者の考えです。
* * *
*1: ゲームの外側にいるプレイヤーの「第三者視点」に対し、ゲームの内側のキャラクターたちの「主観的視点」を《錯覚》させるという、ここでの「加速ドリフト」に関する要約は、東浩紀氏の近著『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書、2007年)の中で展開されている、「感情のメタ物語的な《詐術》」(二重山カッコは引用者)に関する分析を参照したものになっています。同書では、ノベルゲームやライトノベルの文体・構造・内容に反映された「想像力の環境」の分析を通じて、こうした「《錯覚》の技術」が摘出されていますが、これと同様のものが「情報環境」にも見出せるといえるでしょう。
*2: これらの手法については、西川善司氏の技術解説が大変インフォマティヴで参考になります。いずれも1,2年前の記事になってしまいますが、例えば影生成については「3DMark06の秘密 第2回「3DMark06で学ぶ影生成事情」 」(4Gamers.net)を、HDRレンダリングについては「3Dゲームファンのための「Half-Life 2: Lost Coast」エンジン講座 」(GAME Watch)等を参照のこと。
濱野智史の「情報環境研究ノート」
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