このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第13回 「擬似同期×セカンドライフ」の可能性について考えてみる

2007年8月23日

──セカンドライフ考察番外編

(濱野智史の「情報環境研究ノート」」第12回より続く)

さて、今回はセカンドライフ考察番外編として、オマケ的なエントリを一つ書いてみたいと思います。

前回筆者は、「現実世界を模倣する」セカンドライフよりも、「現在を複製する」ニコニコ動画のほうが、効率的に「盛り上がっている状態(=祭り)」を維持する能力を持つがゆえに、ソーシャル・メディアとしての伸びしろが大きい、と述べました。しかし、だとするならば、このように考えることもまた可能でしょう:もし仮にセカンドライフ(のような仮想世界型サービス)に「長期的な可能性」があるとすれば、それは「擬似同期性」を追加できるかどうかにかかっているのではないか、と。ここではその可能性について、ジャスト・アイデアではありますが考えてみたいと思います。

(ちなみに筆者はセカンドライフのLinden Script等の仕組みについては明るくないので、下のようなアイデアがセカンドライフ(ないしはその他類似サービス)上で実際に実現可能なのかどうかは分かりません。おそらく現状は無理、あるいは存在しないだろうと思うのですが、もしご存知の方がいたら教えてください)。


・その1:仮想世界上で、「映画」や「演劇」等のコンテンツを上映し、その場に参加した観客アバター同士のコミュニケーションを擬似同期化するというアプローチ。これは要するに、ニコニコ動画のような仕組みを、セカンドライフの中に丸ごと内包してしまう、という単純明快なアプローチです。例えばアバター同士の会話だけではなく、身振り手振り等の動作も擬似同期化できれば、――いかにもベタなイメージで恐縮ですが――セカンドライフ上でアイマスのようなバーチャル・アイドルのコンサートを開催し、非同期的に「オタ芸」に参加できるようになる、といったところでしょうか。「ニコニコ動画 開発者ブログ」によれば、開発当初は、「ネット上でどうやってユーザにライブ感覚を共有させるのか」という目的から、「ライブ専用のMMOをつくるぐらいの勢い」だったということですが、このアイデアはほとんどそれと同じものです。


・その2:いわゆる「ボット」を利用するアプローチ。MMORPGでは、実際にプレイヤーがキャラクターを操作するのではなく、人工知能的なプログラムに自動的にキャラクターを操作させることができる、「ボット(Bot)」というプログラムがあります。「Google Bot(グーグル・ボット)」の「ボット」です。MMORPGでは、ボットは経験値・アイテム・マネー稼ぎを代行させるための「チート」(ズルい行為)として利用されるのが主のようですが、セカンドライフにおいても、メタバース上のオブジェクトを不正にコピーする「コピーボット」というプログラムの存在が問題になり、規約違反となった経緯があるようです(Offical Liden Blog)。

ただし、ここで「ボット」を利用するアプローチとして想定しているのは、そうしたチートのためのボットではなく、ユーザーが「真正同期的」にはアバターを操作していない間も、「擬似同期的」にユーザーの振る舞いを模倣して振舞うようなボットをイメージしています。比喩的にいえば、プレイヤーの動きを勝手に学習して夜な夜な徘徊する、「夢遊病アバター」といったところでしょうか。また当然ながら、すでにセカンドライフ上にも、話しかけると自動で応答する「チャットボット」――ゲーマー的には「NPC(Non Player Character)」)と呼ぶほうがしっくりきますが――は存在しているようです(ネットでポン)。

確かに、こうしたボット・アバターがセカンドライフ上で増えれば、いわゆる「過疎化問題」は《見た目の上では》いくらか改善するかもしれません。しかし、こうしたアバターに何らかのインタラクションを持ちかければ、チューリング・テストよろしく、即座にその中身がハリボテだと分かってしまうでしょう。また3D空間上では、基本的にアバターは四方八方に動くことができる(と基本的に想定される)ため、ボットの動きはおそらく「不自然なもの」に見えやすいものと思われます。目の前の相手が、自分や周りのアバターの「視線」を意識して「インタラクティブに」動作していないと感じた瞬間、とたんにそのアバターは同じ「いま・ここ」を共有している者ではないとして心理的に除籍されるはずです。これでは「活況感」を呈するどころか「興醒め感」に繋がってしまうので、かえってマイナスでしょう。


・その3:そこで、この拡張版として考えられるのは、仮想世界上の一区画に対し、「3D空間で自由に動ける」という条件に制約を加える、という方策が考えられます。抽象的な表現になってしまいましたが、ここで筆者が想像しているのは、「マリオカート」というゲームのタイムアタックで使われている、「ゴースト」と呼ばれる存在です。ご存知のない方もいるかもしれませんが、任天堂HPの説明を借用すれば、「ゴーストとは、自分自身がタイムアタックで記録したそのコースでの最高の走りを再現したもので、半透明で表示され」る存在のことです。アーキテクチャ的に保存された、自分のプレイの「残像」といったほうがわかりやすいでしょうか。タイムアタックという種目は、基本的に孤独な「自分との戦い」になるわけですが、マリオカートでは、より切磋琢磨していくための「擬似ライバル」として、自分の「残像」を走らせることができる。マリオカートをプレイしたことがある方であれば、このゴーストの存在が、タイムアタックにおいて極めて重要な役割を果たすことを体感的にご存知ではないかと思います。筆者自身も、スーパーファミコンで発売された初代マリオカート(1992年発売)に触れたとき、このゴーストの存在にいたく感動したことを覚えています。

またNintendo DS版のマリオカートでは、ネットワーク経由で「スタッフ・ゴースト」をダウンロードすることで、「擬似同期的」に最速タイムを競うことができます。YouTube上にそのプレイシーン動画がありましたので、一つ参考までに張っておきます。

さて、以前筆者は、ニコニコ動画が非同期的なコメントを同期するための手段として、「動画」が「定規」としての役割を果たしていると比喩的に説明しましたが、マリオカートのゴーストという仕組みにおいては、「サーキット」の存在がちょうどこの「定規」の役割を果たしています。レースゲームというのは、いうまでもなくサーキットをぐるぐる周回する行為を意味していますが、このサーキットをビーっと引き伸ばすと、一つの「直線」になります。このレースゲームの直線性を活かすことで、マリオカートはゴーストという「擬似同期」を実現できるわけです。そのため、仮想世界上で「レースゲーム(サーキット)」のような空間を実現することができれば、擬似同期性の付与可能性が上昇します。これは何も「カーレース」である必要はなく、例えば「マラソン」のようなものでもいい。また、「競争」である必要すら基本的にはありません。直線的な時間と空間の「流れ」さえあればいいので、例えば「観光ツアー」的なものや、万博のパビリオンやディズニーランドにある「移動ライド型アトラクション」でもいいでしょう。

ニューヨーク万博 - Futurama(GM, 1939年) ちなみに、最後に余談ですが、いわゆる「移動ライド型アトラクション」で最も歴史上有名な存在なのが、1939年に開催されたニューヨーク万博でGMが展示したパビリオン、「Futurama(フューチュラマ)」というものです(Wikipedia)。一般にFuturamaは、「20年後」(1960年)の未来のアメリカを予測するというコンセプトで、スーパーハイウェイと郊外住宅地の近未来像を提示し、のちのアメリカン・ウェイ・オブ・ライフの想像/創造に貢献した、という「内容」に焦点が置かれるのですが、ここでは、それが「ライド型アトラクション」だったという「形式(見せ方)」にも注目しておくべきでしょう。Wikipediaによれば、「延べ2,500万人が訪れ、連日2万8,000人が「フューチュラマ」を見た」とのことですが、これだけの多くの人間に、Futuramaが当時の人々の未来イメージを強烈に喚起し、歴史上に名を残したのはなぜか。それは「移動する椅子に乗りながら、誰もが同じタイミングで、シートに内蔵されたスピーカーから流れるナレーション説明とともに、眼前のパノラマを眺める」という《擬似同期的な》仕組みによって担保されていた、と考えることもできるのではないでしょうか。

(Futuramaの画像はGM社のウェブサイトから引用しました。引用元:GM - Corporate Info - History - 1930

フィードを登録する

前の記事

次の記事

濱野智史の「情報環境研究ノート」

プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。